楽器のヤマハとバイクのヤマハは同じ会社だよ!でもどうして??

ヤマハさーん!「楽器ですかエンジンですか?」

元は一つ 楽器屋がなぜバイクメーカーになったのか

明治時代よりピアノなどの伝統楽器を製造し、日本屈指のトップブランドだったヤマハ(旧・日本楽器)。

楽器も有名ですが、バイク、電動アシスト自転車、マリン製品、電動車椅子、カートなどの乗りものを製造する一大メーカー「ヤマハ発動機」も、元は一つの会社でした。

楽器だけにとどまらず、どうしてこのような乗りものの製造を始めたのでしょうか。

最大200社もあったバイク市場に後発で参戦!

日本が戦後の荒廃を乗り越え復興し始めた1950年代は、軍需が激減したことも関係し様々な企業がバイク製造を始めました。

一時は200をも超えるバイクメーカーがあったと言われていますが、そんな現象を受けた日本楽器の川上源一社長は一大決心します。

「私たちもバイクを作ろう」……ただし、この頃はもはや、無数に増えたバイクメーカーの淘汰が始まった時期でもあり「後発の自分たちがやっていけるわけがない」といった意見が社内に広がっていました。

しかし、社長には確信と希望がありました。

その決心をする前に「楽器以外の製造もしたい」と社長はヨーロッパをめぐり、さまざまなプロダクトを見ました。

その経験から、自社の知見を活かし、さらに未来に伸長が期待できるのは「バイクだ」という結論に至ったのでした。

また、楽器の多くは「木材」を使うことから、「将来的に無制限に資材を調達できるとは思えない」とも考え、事業を継続させ、さらに発展させるための足がかりとしてバイク製造をスタートさせました。

ピアノ製造で培った鋳造(ちゅうぞう)技術は、戦時中、戦闘機のプロペラ製造にも役立ったものだった一方、バイクのシリンダーには及ばず「どびん」と揶揄される不格好なものになってしまいました。

しかし、こういった困難の繰り返しを経て、後に変速ペダルとキックペダルを同軸とする設計、あるいは変速ギアがどの位置にあっても、クラッチさえ切ればキックできるという、日本初のプライマリーキックスターターを確立。

他社のバイクとは比較できぬほどの使いやすさを実現します。

ついに誕生したバイクの愛称は「赤とんぼ」

開発スタートから2年ほどが経過した1955年2月、ついにヤマハは自社製バイク第1号、ヤマハYA-1を出荷。それは、125cc・5.6馬力の2ストロークエンジンを搭載したバイクでした。

また、黒色一辺倒だった当時のバイクの中で、「栗毛の駿馬」をイメージした茶褐色とクリーム色のコンビカラーがオシャレで「赤とんぼ」という呼称を得ながら大いに注目を集めました。

ただ、当時は1万円紙幣もまだなく、会社員の初任給1万円前後という時代にしてその価格はなんと13万8000円。

他社製の同等モデルに比べて、2万円ほど高かったこともあり、発売当初の売り上げは芳しい物ではありませんでした。

しかし、のちに始動の早さや機能性、スリムな印象のオシャレな外観が知られるようになると、取り扱い店舗が徐々に増え、バイク事業は軌道に乗り始めました。

YA-1を礎に「4大バイクメーカー」のひとつに

また、ヤマハはYA-1で国内のレースにも参戦。

当時のバイクレースはモータースポーツという一面だけでなく、各社のバイクの優劣を結果的に知らしめる技術コンテスト的な側面が強く、各社とも相当な熱を込めて参戦していました。

YA-1の初戦は、1955年7月開催の「第3回富士登山レース」。

そうバイク製造の知見があったわけではないヤマハでしたが、エンジンの出力アップに全力を挙げて取り組み、YA-1が優勝。

さらに複数参戦したYA-1のうち、10位までに7台がランクするという奇跡を起こしました。

そしてこの浅間レースとほぼ同時期に、日本楽器からバイク部門が独立する形で、我々のよく知るヤマハ発動機株式会社が設立されました。

以降、ヤマハ発動機株式会社と、楽器の「ヤマハ」であるヤマハ株式会社は完全な別会社となり、歩みを進めることになります。

また、同年11月の「第1回浅間高原レース」でも上位にランクし、一気に「ヤマハ」の名を業界内外に知らしめる結果となりました。

日本国内の2大バイクレースでの快挙を経て、YA-1をさらにパワーアップさせたヤマハ発動機は、さらなるモデルを開発し、アメリカのバイク市場獲得を念頭にアメリカのレースにも参戦。

同時に浜松でファクトリーマシンの開発チームを組織し、熱心に世界レースへ参戦しました。

最初の参加となったのが1958年にサンタ・カタリナ島で行われた第8回カタリナGPで、同レースは当時、アメリカの西海岸で当時最も人気が高いレースでした。

このグランプリでヤマハチームは初参加で入賞を果し、その後は世界最高峰のロードレースである世界選手権グランプリにも参加し好成績を収めます。

これらの実績から、バイクメーカーとしてのヤマハは、日本国内はもちろん世界中で知られるようになり、今日の「日本の4大バイクメーカーのひとつ」として定着に至ったというわけです。

その礎を築いたYA-1は今日まで「楽器メーカーだったヤマハを変えた1台」として語り継がれ、ヤマハ関係者だけなくファンの間でも「伝説のバイク」として知られています。

ネットの声

「1950年生まれの親父が中学生の時に、近所の人がもう乗らないからと譲ってもらったのがYA-1でそれでバイクにハマったそうだ。それからまたも近所の人が壊れてるから乗らないと陸王を譲ってもらったそうだが、キャブが被ってただけで洗浄したら直ったそう。走らせてるとこを見た元の持ち主がやっぱり帰してと言うので、泣く泣く返したそう。高校生になってバイトして買ったのがCB72。これで仲間と九州一周したのが一番の思い出だそう。その後は就職してすぐに結婚してカブ一辺倒になった。そんな親父も昨年亡くなったが、YA-1と聞いたら親父が楽しそうにバイクの思い出話するの思いだすのよ。」

「トヨタ2000GTもほぼほぼヤマハ発動機の創り出したスーパーカーだと思う。エンジンはもとより内装のウッドパネル等とステアリングのため息がでるほどの質感とデザインには脱帽です。」

「名車・トヨタ2000GTはヤマハ関与も大きく、一部からはヤマハ2000GTと揶揄された。木材を使ったインテリアの秀逸さはピアノメーカーのノウハウが活きている。」

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