バイクと乗り手の関係…3段階に分けて考えてみた

バイクと乗り手の関係を3段階に分けて考えてみる。

第一段階…バイクとの対話

バイクと一対一で対話を楽しむ。マシンと人間との関係と言ってもいい。対話をより楽しむために、バイクの改造に精を出し、ライディングテクニックを深めていく。

しかし、自分自身を含むバイク以外のさまざまなことに目が向けられることはない。

つまり、自我の探求を怠ったまま自分の世界に埋没してしまう状態がこの段階だ。

第二段階…外界との対話

バイク以外の事象にも目が向けられるようになる。

あちこちにツーリングに行きたくなるのは、第二段階の初期にあたる。直覚を働かせるようになる段階と言ってもいい。

ここでいう直覚を自分なりに解釈するなら、それはものごとを素直に見て、素直に受け止める心のありようと言ってもいいだろう。

大事なのはそのときに主観を交えてはならないことだ。


主観が交わると独断に陥る危険があるからだ。独断は偏見を生んでしまう。自分の小さな経験だけで、物事を判断してしまうのだ。

孔子ならいざ知らず、一をもって十を知ることはできないし、その気になってしまうのは思い上がりにしか過ぎない。

第三段階…自分との対話

ツーリングを重ねるなかで、自分自身を見つめる時間を持つ。

バイク乗りは自分自身を見つめることによって、バイク乗りを取り巻く世界もよく見えるようになる。

これまで、気がつかなかったものに出会い、考えもしなかったことを考えるようになる。

それはまるで、新しい思考回路を得たようになるのだ。

事実、バイクは私たちに新しい思考回路を与えてくれる。

この段階に至ったとき、バイクに乗ることが地の営みであることを理解するのだ。

各段階をまとめてみると

第一段階を自分自身の世界に埋没している状態としたが、第三段階では自我の探求が十分になされ、その結果として自我が解放される。

ここにも直覚の概念を用いるなら、第二段階において外に向けられていた直覚の目を内側に向けることが第三段階のポイントとなるのだ。

第一段階の人と第二段階まで進んだ人の違いを見分けるのは難しい。

暇さえあればバイクであちこち走り回っている人でも、単にガソリンを消費するだけの行為に満足している場合が少なくない。

つまり、どこへ出かけようと、自分の中から1歩も外に出ていない。

第三段階まで進んだバイク乗りは、第一段階と第二段階を卒業するのではなく、総括的に対話を実践しているのだ。

どの段階がいい??

たいていのバイク乗りは第一段階にとどまり、それに不満を覚えることなく一生を終えるだろう。

それはそれで幸せなバイク人生だと言える。

なぜなら、第二段階に進めば節制を要求されるからだ。さらに第三段階に進むと思索を要求される。

第一段階でいる限り、節制とも思索とも無縁でいられるのだから。

それでは、第三段階まで進んだバイク乗りは不幸かというとそんなことはない。むしろその逆だ。


そもそも、第一段階のバイク乗りの幸せというのは、幼児が明日への不満や不安を何も感じずに日々を過ごすのと同じレベルだからだ。

他称と自称に関わらず、バイクマニアというのは、第一段階を1歩も出ない人を指すことが多い。

彼らはバイクの知識なら誰にも負けないだろう。うんちくを一晩中でもしゃべり続けるこもができる。

しかし、自分のバイクの排ガス中にどういった有害物質が含まれているのかと訊いてみると、途端に口が重たくなるのだ。

バイクのすべてを知っていると自負していながら、その程度なのである。

バイクに200万円かけようが300万円かけようがそんなことはどうでもいい(うらやましいけど)。

いわゆるマニアレベルにとどまって、ごく狭い範囲から得られる尊敬に満足している限り、それは単なる消費活動にすぎない。

散在と暇つぶしのバイクだ。

それで何が悪い??という居直りはいい大人のすることではない。

そんな居直りは自分をスポイルすることに他ならないからだ。それは高速道路を目とつぶって走ることと変わらない。

バイクに乗っている…その喜びを感じているだけでいい。

 

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