マスクはいつまで?「脱マスク」論争が危険すぎるワケとは

巻き起こる「脱マスク」議論が危険すぎる理由

“必要派”と“不要派”の不毛な分断を招くだけ

テレビ、ネットなどの各メディアが一斉に「脱マスク」に関する特集を組み、ネット上に議論を巻き起こしています。

これはアメリカの疾病対策予防管理センター(CDC)が「公共機関でのマスク着用義務を延長する」と発表したことに対し、フロリダ連邦地裁が「政府のマスク着用義務は行政法違反にあたる」という判決を下したことを報じたもの。

さらにこの判決を受けてアメリカの主要交通機関が乗客・乗員のマスク着用義務を解除したことから、「日本ではどうするべきか」を問いかけているのです。

「脱マスク」賛否両論の声を加え議論を活発化

メディアの多くは、ホワイトハウス・サキ報道官の

「私たちは最新の科学的知見に基づき、公衆衛生上の決定は裁判所ではなく公衆衛生の専門家が行うべきだと考えています」

日本医師会・中川俊男会長の

「ウィズコロナの状態でマスクを外すという時期が日本において来るとは思っていません。マスクを着用しないという方針はとるべきではないと思っています」

などのコメントをピックアップ。

さらに街頭インタビューなどで「脱マスク」に関する賛否両方の声を加えることで議論を活発化させています。

しかし、この「脱マスク」議論は危うさをはらむものであり、ネット上に何気なくコメントを書き込んでいる私たちにも悪影響を及ぼしかねないものなのです。

4月21日放送の「めざまし8」(フジテレビ系)では、前述した内容に加えて

「7月からはむしろマスク着用をやめたほうがいいんじゃないかと思っています」

「季節性インフルエンザと同じ5類相当に分類され、新たな変異ウイルスが出なければ年内にも外せる」

という専門家の声もピックアップ。

その上でマスクを外す時期について視聴者投票を呼びかけ、

7万1802票のうち「今すぐ」が12%、「まだ早い」が36%、「収束してから」が52%という結果を伝えました。

感情を抑えることが難しい2極構造

ここでは「いつ外すか」という時期をフィーチャーしているものの、それでも話題の方向性は「マスクをするか、しないか」の極端な2択。

「どちらかを選ばなければいけない」という議論の構造は、両者の対立をうながしてショーアップするエンターテインメントの世界でよく見られる手法であり、シリアスなコロナ禍の対応策としてふさわしくありません。

しかも「脱マスク」議論は、自由や健康に対する価値観の個人差が大きいうえに、「長期化している」「命にかかわる人もいる」などの要因もあるため、対立が激しくなりやすいのが怖いところ。

「個人の自由や健康にかかわることを2択で決める」という方法は、大小を問わず両者の分断を生んでしまうリスクが高いのです。

たとえば、21日に放送作家の鈴木おさむさんがコロナ感染の後遺症に悩まされていることを明かして、ネット上にさまざまな反響を集めました。

「脱マスク」議論が行われている最中のニュースだったため、「やっぱり脱マスクは時期尚早」「マスクは関係ないし、自己責任だろう」などの声が交錯していたのです。

なかにはケンカをけしかけるようなコメントも散見されました。

これがもしリアルな場での議論だったとしても、「する・しない」という真逆の選択肢だけに対立を招きやすく、感情を抑えて話し合いを続けることは難しいでしょう。

つまり、「他のことでどんなに気が合う人でも、脱マスクだけで仲違いしかねない」のです。

実際、私がこの半年間で話を聞いてきた人の中には、

「マスクをすぐ外す人とはあまり会わないようになった」
「マスクに神経質な友人が離れていったけど仕方がない」

などと人間関係の変化を挙げる人が少なくありませんでした。

議論をしなくても離れてしまうほどセンシティブなことなのですから、議論したら修復が難しい状態になってしまうリスクが高いのです。

必要派の怒りと不要派の上から目線

「めざまし8」へのアンケートにも表れていたように、現段階では「マスクが必要」と考える人のほうが多いのは事実でしょう。

しかし、「不要」と考える人々を軽んじるのは乱暴な行為であり、単純な多数派優位の生きづらい社会になってしまうリスクもあります。

不要派の人々にしてみれば、「不満を抱えながら着用してきた」という期間が長期にわたっているため、こうした議論になるとどうしても強い言葉を発してしまうもの。

一方、必要派の人々は現状に納得しているうえに多数派であることから、強い言葉を発する必然性は薄く、不要派を「相手にしない」という上から目線でいなすような対応をしがちです。

さらに、このような必要派のスタンスを見た不要派の人々は「同調圧力だ」と感じて、より強い反発の声を挙げていく……。

やはり「する・しない」という2択の議論は、勝者と敗者を決めるような形で遺恨につながりやすく、できれば避けたいものなのです。

なかには、「いまこそ自己責任論でいいよ。『もう無くても平気』って言う人は外せばいいし、『まだ危険だ』と思う人は安心できるその日までつければいい」という落としどころを作ろうとする声も見られました。

ただ、これも危うさを感じさせるアバウトな提案であり、必要派・不要派ともに同意できない人が多いのではないでしょうか。

一部の専門家が指摘していますが、まだ不安を抱いている人が多い日本で分断を生まないための現実的な方法は、段階的な「脱マスク」。

「屋外」からはじめて、次に「換気対策をした屋内」、さらに「声を出さない屋内」、「屋内外すべて」というステップを踏んでいく形で、必要派と不要派の壁をなくしていくのが自然な形でしょう。

また、「必要派と不要派の両者に納得してもらう」という意味で必要なのは、感染者数、重症者数、ブースター接種の進捗度などの数値や、経口薬の使用、熱中症の危険度などの基準を明確にして進めていくこと。

もちろん病院などの例外はあるでしょうし、場所や人などに合わせたきめ細かい対応が求められているのであって、現在のような主に2択で選ばせるような議論は誰も得をしないのです。

アメリカとの比較が不毛な理由

今回の「脱マスク」議論は、冒頭に挙げたようにアメリカでの出来事が発端でした。

さらにメディアは、イギリス、韓国、中国などの状況を絡めて日本との比較を報じ、それを見た人々も「マスクをしていないアメリカと感染者数は変わらない」などの声を挙げていますが、どちらも大した意味を持たないでしょう。

その理由としては、まず専門家たちが指摘しているように、日本と外国では、人口、人種、気候、文化などの違いに加えて、感染者数や重症者数、ブースター接種の進捗度、検査体制、感染による免疫獲得などの差が大きいこと。

コロナ禍に関してはメディアが一部の情報をピックアップして外国の状況を採り上げることで、「外国に比べて日本は……」という声を生んでいる傾向が強く、今回の「脱マスク」議論も「メディアが仕掛けた」という印象があります。

また、アメリカ・CDCの指針では、大半の地域が「学校や公共施設などの屋内は原則マスクの必要なし」で、推奨されているのは「都市部の一部」「公共交通機関」のみでした。

つまり、日本とは現在までの歩みや現状に大きな違いがあるため、比較対象になりづらく、「アメリカがそうなら日本も」という動きにはつながりにくいのです。

さらに言えば、アメリカも州によっては現在も着用義務がある交通機関もあるそうですし、そもそも「アメリカ人の過半数が公共交通機関でのマスク義務化に賛成している」というデータもいくつか見ました。

決して「アメリカ人=脱マスク」ではないのです。

屋内施設でも、「マスクはしなくてもいいが、ワクチン接種証明書の提示が必要」としているところがあるほか、消毒や検温などの予防策も日本とは異なるだけに、わざわざ比べる必然性は薄いのではないでしょうか。

もともと「脱マスク」議論は、「数あるコロナ対策の中で、マスクだけをピックアップして議論する」という不自然なものであり、もしアメリカと比べるのなら、すべての項目を含むフェアな形でするべきでしょう。

「マスクが閉塞感の象徴」という異常さ

やはり大切なのは、政府や首相がリーダーシップを取って、人々に明確なメッセージを伝えていくこと。

今回のように、アメリカのニュースをきっかけに議論をはじめるのではなく、「政府や首相が自ら発信し、それに国民が反応し、理解を深めながら進めていく」という形が分断を生まないための最善策ではないでしょうか。

日本医師会の中川会長は、「まずは束ねるほうの“収束”が来ますよね。

そして最終的に終わるほうの“終息”が来ますが、『“終息”が来るんだ』ということがわかった時点で初めて『マスクを外していいんだ』というようになると思います」ともコメントしていました。

しかし、肝心な“終息”の見通しや基準については不透明なままであり、だからこそ不要派の怒りを増幅させています。

首相も日本医師会の会長も、肝心なことは言ってくれません。

そんな不信感を抱き続けてきたことが、「マスクだけが閉塞感の象徴にされてしまう」という異様な状況を生み出してしまったのです。

前述したような段階的な「脱マスク」の指針や、検査・医療体制の再整備など、必要派の人々に不安を抱かせないための手段は少なくないだけに、いかにこれらを少しでも早く国民に伝えていくのでしょうか。

一方、私たちが今できるのは、「必要」「不要」の2択で議論して分断することではなく、リーダーたちに行動をうながすことなのかもしれません。

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