藤子不二雄Aのアシスタントは高給すぎて辞めたくなかった!?

藤子不二雄Aの記憶「高給すき゛てアシスタントか゛辞めなかった」

『怪物くん』『忍者ハットリくん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』――。

数々の傑作を遺し、漫画家、藤子不二雄A(本名・安孫子素雄)氏が亡くなった。

享年88。

「自分が死ぬ事は全然怖くない」

「僕は寺で生まれたから、死は常に身近にあった。だから自分が死ぬ事は全然怖くないんです」

2018年、小誌のインタビューで「老後と死」についてこう語っていた藤子氏。

4月7日、神奈川県川崎市内の自宅で倒れているところを発見されました。

富山県氷見市で生まれ、その後転校した小学校で、後に漫画家コンビ「藤子不二雄」を結成する盟友、藤本弘(藤子・F・不二雄)氏と出会います。

87年末にコンビ解消を発表したのですが、96年に藤本氏が亡くなるまで、川崎市内で三軒先に住む“隣人関係”が続いていました。

和代さんに惚れ込んでいたが、一方で女性好き

プライベートでは和代夫人が85年に倒れ、現在も入院治療中。

夫の死去は伝えられていないというのです。

夫妻に子はおらず、晩年は姪が食事など身の回りの世話をしていました。

藤子氏と長年交友があった出版社「ヒーローズ」代表の白井勝也氏が語ります。

「彼は和代さんをとても大事にしていました。惚れ込んでいた。でも、その一方で女性が好き。僕らと酒席を共にしていても、綺麗な女性が隣にいたらどんどん声をかけるんです」

デビュー間もない頃の宮沢りえもその一人でした。

「西麻布のお店でたまたま一緒になった時、先生はすぐに我々をほったらかしてりえちゃんの席に挨拶に行って長い時間帰ってこなかった(笑)。交友関係は広く、大橋巨泉さんや吉行淳之介さんとは呑み仲間でした。賑やかな雰囲気を愛していましたが、それは裏を返せば寂しがり屋だったということでしょう」(同前)

アシスタントは高給。 “ホワイト企業”だった藤子スタジオ

藤子氏にはもうひとつの“家族”がいました。

日夜、創作を共にする「藤子スタジオ」のアシスタントたちです。

70年代にアシスタントを務めた、『まいっちんぐマチコ先生』などで知られる漫画家、えびはら武司氏(67)が振り返ります。

「僕がアシスタントに採用されたのは高校を卒業するタイミングでした。10時から18時までという約束でしたが、実際はスタッフは昼頃来て、夜中まで仕事をしていた。そうすると残業代が出る。大卒初任給が約5万円の時代でしたが、僕らは残業代含めて月額10万円以上は頂いていました」

“ホワイト企業”だった藤子スタジオ。だがそれゆえの問題もあったそう。

「あまりに待遇が良いので、オリジナルを描いてデビューしようという意識が削がれ、長く在籍する人が多かったように思います。これは、スタッフに優しすぎた先生たちの悩みのタネだったのかも」(同前)

えびはら氏は「ここは環境が良すぎる。長くいてはダメだ」と思い、2年で辞めたというのです。

「柔らかい漫画を描く藤本先生はあまり僕らとコミュニケーションを取らず、ブラックなテイストの漫画を描く安孫子先生は逆に凄く親しみやすかった。よく赤坂などで仕事終わりにお酒を御馳走になりました」

「いい意味で気を使わない、とても気さくな先生でした」

半世紀に及ぶ交流があったマンガ家の里中満智子氏(74)がその人柄を偲びます。

「安孫子先生は私を『さとまっちゃん』と呼んで下さっていました。さいとう・たかを先生や石ノ森章太郎先生と一緒に食事にもたくさん誘って頂いて。ある時『さとまっちゃんは何歳になったの?』って言われて、『もう40ですよ』と答えたら『ずっと少女だと思っていたけど、老けたねえ』って(笑)。いい意味で気を使わない、とても気さくな先生でした」

作品も人柄も愛された88年でした。

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