
2026年3月25日から、京都御所の春の特別公開「宮廷文化の紹介」が始まります。
京都府京都市上京区に位置する京都御所は、鎌倉時代中期から明治時代初期まで歴代天皇が暮らした宮殿です。
春の特別公開では、普段は立ち入れない殿舎が無料で開放され、雅楽や蹴鞠の演技も催されます。
見どころの中心となるのが、内裏の正殿「紫宸殿(ししんでん)」です。
その南庭には、今も「左近の桜」と「右近の橘」が往時と同じ配置で並んでいます。
ただ花を愛でるだけでなく、この二本の木が背負った歴史の重みを知ると、京都御所の春がまったく違って見えてくるかもしれません。
今回は、平治の乱の名場面から桜と橘の歴史、そして平和の尊さまで、紫宸殿前の二本の木が語りかけるものを紐解きます。
目次
平治の乱と紫宸殿前の一騎討ち——「平治物語」が描いた名場面
平安時代末期の平治元年(1159年)12月、京都の政界を揺るがす政変が起きました。
それが「平治の乱」です。
後白河上皇の近臣・藤原信頼が、源義朝と手を結んで挙兵しました。
平清盛が熊野参詣で都を留守にした隙をついて、後白河上皇を大内裏に幽閉し、政敵の藤原信西を自害へと追い込んだのです。
しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢の前に、信頼・義朝方は次第に瓦解します。
多くの廷臣が清盛側に寝返り、孤立した義朝は東国へと落ちていきました。
この乱の結果として源氏の勢力は激しく衰退し、清盛を頂点とする平氏政権が確立。清盛は1167年(仁安2年)に武士として初めて太政大臣の地位に就くことになります。
「組もう、組もう」——義平と重盛、紫宸殿前の激突
平治の乱を題材にした軍記物語「平治物語」には、乱のクライマックスを彩る名場面があります。
平清盛の嫡男・重盛と、源義朝の嫡男として「悪源太」の異名をとった源義平の一騎討ちです。
両者が対決した舞台は、天皇が暮らす内裏の正殿・紫宸殿の前でした。
「平治物語」によると、義平が重盛に「組もう、組もう」と呼びかけ、「左近の桜」と「右近の橘」の周りを騎馬で7度も駆け回ったとされています。
決着はつかず、戦局の変化により義平は御所を離れざるを得なくなりましたが、その躍動感ある描写は後世に語り継がれてきました。
「平治物語」の研究者は、この場面を「悪源太義平と平重盛との対決が躍動感あふれる筆致で描かれている」と評しています。
源義平は「悪源太」の呼び名が示す通り、当時から勇猛果敢な武将として知られていました。
平治の乱後、義平は捕らえられ処刑されます。
父・義朝も配下の武将に謀殺され、源氏は一時的に壊滅状態に追い込まれました。
現在の京都御所は、元の大内裏から東に約2キロ離れた場所にあります。
義平と重盛が騎馬で駆け回ったのは往時の内裏の紫宸殿前であり、現在の御所とは異なる場所です。
しかし現在の京都御所の紫宸殿前にも、かつてと同じ配置で左近の桜と右近の橘が植えられており、往時の情景を現代に伝えています。
平氏政権の誕生を促した、歴史の転換点
平治の乱は、日本の中世史を語るうえで欠かせない出来事です。
保元の乱(1156年)で共に後白河方として戦った平清盛と源義朝が、わずか3年後に激突した形となります。
乱の背景には、保元の乱後の恩賞をめぐる不公平への源氏の不満や、院近臣間の権力抗争が複雑に絡み合っていました。
この乱を経て武士の時代への転換が加速し、やがて源平合戦、鎌倉幕府の成立へとつながっていきます。
紫宸殿前の桜と橘は、その歴史の転換点を間近で見守っていた「証人」ともいえる存在です。
左近の桜はかつて梅だった——知られざる植え替えの歴史
「左近の桜」という名前は、今では紫宸殿の南庭に植えられた桜の代名詞となっています。
しかし実は、最初からそこに植えられていたのは桜ではありませんでした。
794年(延暦13年)、桓武天皇による平安京遷都の際に紫宸殿の南庭に植えられたのは、左側が梅、右側が橘でした。
村上天皇の日記「天暦御記」にもその旨が記されているといいます。
承和年間(834〜848年)に梅から桜へ
では、なぜ梅は桜に変わったのでしょうか。
複数の史料を照合すると、承和12年(845年)2月の記録には「梅の花の前で酒盛りをした」とあり、貞観16年(874年)8月には「台風が来て桜が倒れた」という記述があります。
つまり845年以降874年以前のどこかで、梅から桜への植え替えが行われたと推察されます。
最も有力な説は、承和年間(834〜848年)に梅が枯れてしまい、そのタイミングで桜に植え替えられたというものです。
この植え替えの背景には、平安時代中期にかけて貴族たちの間で梅よりも桜を好む傾向が広まっていたことが影響していると考えられています。
平安時代中期に編まれた「古今和歌集」では、桜を詠んだ歌が大幅に増えています。
奈良時代の「万葉集」では梅の歌が多かったのとは対照的で、貴族たちの美意識が梅から桜へと移り変わっていく様子が、歌の数からも読み取れます。
「左近」「右近」の名が示すもの
「左近の桜」「右近の橘」という名称は、それぞれの木のそばに儀式の際に配陣した近衛府の武官の名前に由来しています。
天皇の御座から見て左側(向かって右)に桜があり、その近くに左近衛府の武官が警護の陣を敷いたことから「左近の桜」と呼ばれるようになりました。
右側(向かって左)の橘は、右近衛府の武官が陣を敷いたことから「右近の橘」と称されています。
現在の京都御所の紫宸殿前に植えられている左近の桜はヤマザクラ系の品種で、例年3月下旬から4月上旬にかけて見頃を迎えます。
春の特別公開の時期はちょうどこの見頃と重なるため、白い花を咲かせた桜を間近で観賞できます。
幾度も失われ、幾度も再建された——京都御所と桜が象徴する「継承」
現在の紫宸殿は、1855年(安政2年)に古式に則って再建されたものです。
内裏は鎌倉時代の火災で焼失して以来、元の場所には再建されませんでした。
現在の京都御所は元来、里内裏(天皇が仮に住まう場所)のひとつであり、1331年(元弘元年)以降に正式な御所として定着したものです。
応仁の乱(1467〜1477年)を含め、幾度もの戦禍と火災に見舞われながら、その都度再建されてきました。
戦禍の中で失われた世界の文化遺産
世界を見渡すと、戦争が文化遺産に与えた打撃の歴史は枚挙にいとまがありません。
第二次世界大戦では、ドレスデンの旧市街やワルシャワの歴史地区が壊滅的な被害を受けました。
近年では、シリア内戦でパルミラ遺跡が破壊され、アフガニスタンのバーミヤン渓谷の石仏群がタリバンによって爆破されました。
イラクでは、モスルのフサイニーヤ・モスクや考古学博物館の収蔵品が失われています。
2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻でも、オデーサの歴史地区が世界遺産に登録された直後に攻撃を受けたほか、多くの文化財が損傷・略奪されています。
ユネスコは2024年の報告書で、ウクライナにおける文化財への攻撃は350件以上に上ると記録しています。
今も争いが絶えない世界のなかで
今この瞬間も、イランやウクライナでは多くの命が戦争に奪われています。
停戦合意が成立したガザでも、人道状況は依然として厳しい状態が続いています。
戦禍は生身の人間の命を奪うだけでなく、その地域が何百年もかけて積み上げてきた文化や記憶ごと消し去ってしまいます。
その意味で、応仁の乱の戦火をくぐり抜け、明治維新の激動を経て今もなお受け継がれてきた京都御所の桜と橘は、文化の継承がいかに奇跡的なことであるかを教えてくれます。
紫宸殿前に立ち、白い花をつけた桜を見上げるとき、そこには1000年以上の歴史が静かに積み重なっています。
平和だからこそ見られる——左近の桜が語りかけるもの
平治の乱で源義平と平重盛が騎馬で駆け回った紫宸殿の前。
梅から桜に植え替えられ、幾度も失われては再建されてきた左近の桜。
そして今春も、京都御所の特別公開でその花を目にできる事実。
こうした歴史の層を重ねて見ると、桜はただ美しいだけの花ではないと感じます。
戦乱の時代を乗り越えて今に伝わってきた桜と橘は、この国が大切にしてきたものの象徴です。
それを目にできること自体が、平和の尊さを静かに教えてくれています。
世界では今も争いが絶えず、かけがえない文化遺産が次々と失われています。
京都御所の春の特別公開は2026年3月25日から開始予定で、入場は無料です。
最寄り駅は地下鉄烏丸線・今出川駅で、徒歩約5分。
詳細は宮内庁のウェブサイトでご確認ください。
千年の時を経て今も咲く桜の前に立ち、平和のなかで歴史と向き合う時間を持ってみてほしいと思います。

