27年前に日本を襲った大危機…

新型コロナウイルスの流行で、東京の街には不安が渦巻いています。

とりわけ恐ろしいのは、新型コロナウイルスそのものよりも、物資の不足でしょう。

米がひと粒も収穫できない地域も

マスクは相変わらず入手困難。

これに加え、「トイレットペーパーがなくなる」というデマが流れ、多くの人が急いで買いに走った結果、店頭から消えてしまう騒動も起こりました。

また残念なことに、トイレットペーパーだけでなくカップラーメンなどの保存食も店頭から一時的に消えてしまいました。

さらに小池百合子都知事が3月25日(水)、今週末の不要不急の外出自粛を要請。

しかし東京は交通網が非常に整備された街で、容易に食糧危機になるとは到底考えられません。

しかし不安になるのが庶民感情というものですから、理解できないことはありません。

なぜならば今の40代くらいまでの人は、「いつも食べているものが不足する」ということを一度経験しているからです。

それは、1993(平成5)年に起こった平成の米騒動です。

1993年の夏は、日本人があまり体験したことのないような寒い夏でした。

原因は1991年のフィリピン・ピナツボ山の噴火といわれています。

また梅雨も例年より長く、気象庁は梅雨明け宣言を一度発表したものの、8月下旬になって取り消すという異常な事態が発生しました。

夏の気温は平年より2度、ひどいところになると3度下がりました。

日本各地で行われている稲作には、夏の太陽が当然欠かせません。

太陽にカンカンに照らされることで、秋に稲穂が実るのです。

秋になって寄せられる「作況指数」は、ひどいものでした。

作況指数は平年を100として示すものですが、全国で著しい不良の水準となる90を大幅に下回る74が平均値に…。

とりわけ東北地方では青森県28、岩手県30、宮城県37という大凶作になったのです。

中でも青森県の各地では数値が0、米がひと粒も収穫できない地域が続出しました。

秋を迎えたにもかかわらず田んぼには青々とした稲があるという、不気味な光景が10月になっても見られたのです。

地域全体が不景気になる懸念も

そんな光景を間近で見ていた東北地方の都市部では、米が9月頃から早くも店頭から姿を消すようになっていました。

スーパーなどは、ほかの地域から米を仕入れて販売するまでに。「ひとり一袋」に制限しても行列は絶えずにすぐに売り切れ、わずかに収穫できた田んぼには米泥棒が出現することすらありました。

米農家の多いほかの地域は、農家の経営が苦しくなることで地域全体が不景気になっていくのではないかという危機感を募らせていました。

「ヤミ米」すら流通しにくい事態に

秋以降、米不足になることがわかってくるにつれて、全国各地で売り惜しみと価格の高騰が始まりました。

当時と現代で異なるのは、米は食糧管理制度によって価格や供給方法を国が統制するものだったということです。

もっとも重要な農作物である米の生産と流通を管理するための制度で、太平洋戦争中から整備されてきました。

時代によって変化はあるものの、米の価格は国が決めて買い上げ、業者を通して消費者へ流通させます。

もっともこの制度は1960年代後半にすでに形骸化しており、価格決定は民間が行う自主流通米が主流になっていました。

とはいえ、そうした制度があるため、農家から勝手に米を買えば「ヤミ米」となるのです。

新型コロナウイルスの騒動ではマスクの転売が横行して問題となりましたが、需要に対して供給が不足すれば同様の事態が起こります。

この年の米の買い入れ価格は1俵(60kg)約1万6400円。

農家には次々とヤミ米を扱う業者がやってきて、それよりも高い1俵1万8000円以上で買い占めていきました。

ヤミ米を仕入れた販売業者も将来の値上がりを見越して売り惜しみ、米不足が本格化していくことになったのです。

かつての「外米」アレルギーが復活

これに対して政府が打ち出したのは、米の輸入です。

この年まで日本の米の国内自給率は常に100%でした。多くの農産物が海外からの輸入に頼るなか、「コメはひと粒たりとも入れない」というのが伝統的な政府の方針だったのです。

しかし米の不足が避けられないため、タイやアメリカ、中国から輸入することを余儀なくされました。

当時は、太平洋戦争中の食糧不足の時代に輸入された「外米」という極めて質の悪い米を食べた記憶のある人もまだ多かった時代。

そのため、輸入米に対するイメージはひどいものでした。

年が明けて輸入が本格化すると、

「カリフォルニア米からカビが発見された」
「タイ米からネズミの死骸が」
「発がん性のある薬品が検出された」

といったニュースが相次ぎました。

そして販売されたブレンド米

悪評しかない外国米を流通させるために、食糧庁(現・農林水産省食料産業局生産局農産部穀物課)はブレンド米として流通する方針を決めます。

国産米3割に対して、中国やアメリカ産2割、タイ米2割を混ぜて販売するわけです。

と言う自の記憶では、味にさほど変わりはなかったように感じました。

ところが、感情的な拒否反応は強く、「そんなものが食べられるか」と怒り狂い、「どこそこの店で国産米が販売される」という情報が流れれば、またたく間に長い行列ができるようになったのです。

ブレンド米の流通が始まった1994(平成6)年3月には、輸入の遅れから国産と外国産の割合が5対5となったこともあり、国産米を求めるニーズはさらに加速しました。

中には、混じりっけのない国産米を不人気なタイ米と抱き合わせで販売するという悪徳業者も現れましたが、それでも売れたといいます。

大学の学生食堂で起きた悲劇

日本が大量の買い付けをしたことで、タイでは米価が高騰する事態が起こりました。

それにもかかわらず、日本でタイ米はとにかく不人気でした。

今では日本米とタイ米は種類が異なり、炊飯器ではおいしく炊けないこと、カレーなどの食べ方次第でとてもおいしくなることは知られています。

しかし当時はそのような知識を持っている人が少なかったのです。

そうした状況のため、国産米であればなんでも売れました。

ある米屋では、北海道から仕入れた米があまりにおいしくないので売らずにいたところ、「売り惜しみだ」と詰め寄られて渋々販売。

あとから「あんなまずいものを売りつけて」と、怒鳴り込まれたといいます。

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米不足の余波で、飲食店はご飯の盛りを少なくしたり、大盛りを止めたりしました。

当時、若者の定番チャレンジメニューがあった「カレーハウス CoCo壱番屋」でも一時期、メニューが取りやめになったのです。

悲惨なのは、腹ペコがたくさん集まる大学の学生食堂。

『週刊朝日』1993年12月31日号によると、東北大学ではご飯の大盛りが130円から160円に値上げ、カレー大盛りは240円から275円に。

専修大学ではご飯の大盛りを廃止し、「パン、麺類を食べましょう」という掲示を出していました。

なお東京都知事の小池百合子さん(当時は衆議院議員)は、この騒動を機に「ダイエットを始めた」そうです(『週刊女性』1994年4月5日号)。

混乱の今こそモラルある行動を

この騒動は、沖縄県で米の収穫が始まる1994年の6月頃まで続きました。

しかしその後も経済の低迷で、余ったタイ米が放棄されるなど、日本のモラルが崩れた時代の象徴的なエピソードとなったのです。

それでも、店頭に捨て値で並んだタイ米のおかげでなんとか生き延びたという人も多かったでしょう。

現在、新型コロナウイルス騒動でやってきた物資不足の混乱。

「平成の米騒動」を教訓に、各自がモラルある行動を心がけたいものです。

ネットの反応

「家にいるとどうしても消耗品を使うし……リスク軽減の為もあって、できれば買い物に出かける機会も減らしたいから、一度に買う量が増えがち。それを買い占めと言われれば辛いかな。非常識な量を買う客や、特に転売ヤーは断罪すべきなのは同意です」

「外出禁止ではないが、社員を守るためのスーパー小売店一時閉店や物流が止まるのでは?という不安は確かにある。デマのトイレットペーパーと違って、もう少し安心できる情報が欲しい。」

「買うんじゃ無くて自分で食料を生産する能力を学ばないと。種から育てるんじゃなくて山に生えてる野生の山菜等の苗を自分の家のプランターで育てれば保存が出来て食べたい時に収穫は出来ますよ。」

平成の米騒動でもっと米の需要が増えるかなと思ったら、さらにみんな米を買わなくなったんですよね。

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