【神田川】かぐや姫の名曲はこうして生まれた…昭和が懐かしい!

「できた!」「じゃ、言ってくれ!」

締め切り間際に「南こうせつ」が電話越しに聞いた“名曲”の歌詞…「発売したらそのまんまミリオンセラーになっちゃった」

俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いは何か――。

「この曲を出さなかったら未来はない」

昭和歌謡とポップスがここ数年、音楽界の大きな流行になっている。

数ある曲の中で、南こうせつが歌う「神田川」(1973年9月発売)はランキングで必ず上位に選ばれ、特集番組などで流れる定番の名曲だ。

♪貴方は もう忘れたかしら

このフレーズが流れると、思わず「赤いてぬぐい マフラーにして」と口ずさむ人が多いに違いない。

当時、まだ中学生だったが、それでもメロディがスゥッと耳に入ってきたのを思い出す。

レコード会社は日本クラウン。歌謡曲や演歌に強い会社だから、フォークソングの「神田川」を、かぐや姫のアルバム「かぐや姫さあど」から、シングルカットするかどうかで社内は割れた。

そんな時、紛糾する会議にフラッと顔を出したのが日本コロンビア時代に美空ひばりを3年間担当した伝説の名ディレクター、馬渕玄三だった。馬渕はこう断言した。

「これは歴史に残る名曲になる。出さなかったら日本クラウンに未来はない」

こうしてシングルカットされた「神田川」は、200万枚近い セールスを記録する大ヒット曲になった。

ところで、この出だしがちょっと独特な名曲はどういう経緯で生まれたのか、不思議に思っている人も多いはずだ。

「神田川」を作詞した喜多條忠に「今あるのはあの人のおかげ」というテーマのインタビューにご登場いただいた。

すでに知られている事実かもしれないが、詩を書いた当の本人の言葉となると味わい深いものがある。

「歌詞が天から降ってきたみたいだった」

当時の喜多條は文化放送専属の放送作家だった。

こうせつは一学年下で、何かのキャンペーンで知り合ったという。

73年の夏前のこと。

こうせつは「かぐや姫さあど」のレコーディングを明日に控えていたが、曲が足りない。

そこで喜多條に「1曲書いてください」と頼んだ。

喜多條は放送作家として毎日、原稿を書き飛ばしていたから筆は速い。

それを見込んでのことだ。

しかし、いきなりそんなことをいわれても……。

苦悶する喜多條が、帰宅途中に神田川が流れている橋を渡った。

「神田川」のプレートも見た。

その瞬間、学生時代の甘酸っぱい思い出が蘇ったという。

喜多條は思いつくままチラシの裏に「貴方は もう忘れたかしら…」と一気に書き上げた。

それをどうやって送ったのか――当時はまだFAXなどない。

電話で口伝だ。

これにこうせつが曲をつけたわけだが、ここから先は、こうせつ本人から聞いてみたい。

そのチャンスがないかと思い続け、実現したのは21年8月だった。

「人生を変えた一曲」というテーマだったが、その時に喜多條の話の続きも訊くことができた。

喜多條からは歌詞がなかなか送られてこなかったそうだ。

締め切りに間に合わない。仕方がないからメンバーで書くか、井上陽水か吉田拓郎に頼もうかと話し合っていた。

そこへ夕方、ギリギリのタイミングで電話が鳴った。喜多條からだった。

当時だから黒電話だ。

「できた!」

「わかった、じゃ、言ってくれ!」

「貴方は もう忘れたかしら」と手元にあった紙にメモする。

この時の様子をこうせつは「歌詞が天から降ってきたみたいだった」と語った。

でも、「赤いてぬぐい マフラーにして」って、変な歌詞だなと思ったそうだ。

そして言われるまま最後まで書き終わった頃には、メロディがフワッと浮かんできた。

こうせつは5分もたたずに曲をつけた。

喜多條に電話したこうせつはギターを弾きながら歌った。

喜多條はビックリしていた。

すぐに曲をつけたことだけでなく、それがものすごくよかったこともあったのだろう。

名曲「神田川」が生まれた瞬間だった。

「出会えて本当によかった」

日本クラウンはこの曲をシングルで出すか迷ったわけだが、決め手は深夜ラジオの反響だった。

こうせついわく、「ものすごいリクエストで」。

それでも社内ではもめたが、前述の馬渕の一言で出すことになった。

「忘れもしない。その年の9月20日です。発売したらそのまんまミリオンセラーになっちゃった」

時は70年安保後。

社会をよくしよう学生運動に走った若者の目的は一緒なのに、その果てに、仲間をリンチ殺害したあさま山荘事件が起きて、運動は衰退した。

目標を失った学生の胸にぽっかり穴が開いた。

これからどうしようか……。

「天下国家を論じるのも大事だけど、本当に大事なのは人を愛すること。ここからなんだ、始まりは。そんなタイミングで『神田川』が発売され、みんなが共感してくれた」

「『神田川』という歌に出会って本当によかったなと思います」と語るこうせつの目が潤んでいるように見えた。

ネットの声

「この曲が流行ったのはは自分の少し上の世代の方々が若者の頃ですね。
自分はまだ小学生でしたからその時はあまり意味が解っていませんでした。
中学高校と上がるにつれ何となく理解するようになり「大人の世界」を覗いたような、そんな気がしていました。
同棲する人達がいるんだと云うリアルさも感じましたし「ただ貴方の優しさが怖かった」と云う歌詞からは「生きることの切なさ」みたいなものも伝わってきたような気がしてます。」

「喜多條さんは、赤い手拭いマフラーにして、の部分でペンを一度止めて、泣きそうになったんですよね。これだけ深い思い出を世に出していいかって。でも薄れさせない思い出にもしたいから書いた。そしたら、こうせつの才能と相まってビックヒットになったんですよね。」

「4歳上のあんちゃんが買ったシングルレコード「神田川」聞いてました。
歌詞の内容を知るのは ずっと後になってからです。
昭和53年頃には「妹」「僕の胸でおやすみ」シングルレコードを自分で買い聞いてました。
今でも持ってます。」

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