小室圭さんへのバッシングが止まらない理由

「小室圭さんバッシング」が世間で止まらない3つの理由

小室圭さんへのバッシングが止まらない。

最近でもたとえば「女性自身」(2022年3月22日)は、2月に司法試験会場に現れた小室さんの様子を見て、「小室さんの髪はボサボサで、またおなか回りも膨らんでいました」「とても新婚の夫には見えない。小室夫妻はうまくいっていないのではないか」という、NY在住のジャーナリストのコメントを載せています。

昨年10月に結婚し、現在ニューヨークに住む小室夫妻は、正真正銘「一般人」になったはず。

こうしたメディアの報道は、はっきりいって大きなお世話でしょう。

なぜ、執拗なメディアのバッシングが続くのか。この問題の根本にあるのは、日本における「個人の不在」。

「自分は自分、他人は他人」と 思えない“共感過剰シンドローム”

そもそも日本人は、欧米人に比べて他者に対する共感能力が高いといわれます。

たとえば、会社で同僚がまだ仕事をしていると、自分が終業時間になっても帰りづらくなるのです。

時間になれば、さっさと帰宅する欧米の職場とはまったく違います。

もちろん、共感能力が高いのは日本人のよい面でもあります。

しかし、自分とは直接、何の関わりもない、テレビに画面に登場する有名人についても、なぜか「我が事」のように考え、過剰な共感能力を発揮することがあるのです。

当初好感を持って見ていた人物に対しても、犯罪や不祥事などの何らかのきっかけがあると、そのキモチが「裏切られた」となって反転し、ひどい非難やバッシングになることがよくあります。

これを「共感過剰シンドローム」と呼んでいます。

要するに、日本人は「自分は自分。他人は他人」と思えないのです。

実は「個人」は、もともと日本にあったものでなく、ヨーロッパ産の言葉です。

欧州では、農村が解体して都市に人口が流出する都市化と、自分の罪を神に告白するキリスト教の「告解」の普及によって、12世紀前後に“individual”たる個人が生まれました。

この個人こそ、「自分は自分。他人は他人」と考える人間のことだったのです。

日本には明治期にこのindividualが欧州から輸入され、江戸時代には存在しなかったので、1884年頃に「個人」と新たに造語されました。

個人は現在、普通に使われるコトバになっているが、「あいつは個人主義的で勝手なヤツだ」という言い方にあるように、「世間」では必ずしもよい意味では使われません。

つまり、今でも英語のindividualと日本語の個人は似て非なるものです。

端的に言って、欧米とは異なり日本では個人を主張すると嫌われます。

「自分は自分。他人は他人」と思えないことが、「共感過剰シンドローム」を生み出すのです。

これが、小室さんに対する奇妙なバッシングが、なかなかやまない理由になっています。

「個人の不在」が 「家が責任を取れ」に

二つ目の理由は、日本では「個人が不在」であるために、家族の中も個人と個人との関係にならず、家族構成員の不始末があると「家が責任を取れ」になるからです。

もともと「世間」によるバッシングが始まったのは、2017年9月の婚約内定記者会見から3カ月ほど後のことです。

元婚約者に借金を返済していないという、母親の「金銭トラブル」が週刊誌で報道されました。

この報道をきっかけに、それまでの「世間」のお祝いムードが、「裏切られた」という感情に反転し、一気に小室さんバッシングに向かったのです。

元婚約者の主張にどれだけ法的な正当性があるのかは、ここでは置いておきます。

いずれにしても、小室さんがバッシングされたのは、「母親の不祥事は息子が責任を取るべきだ」と、「世間」が考えるからです。

ところが、個人から構成される欧米の家族を見ると、日本の家族とはまったく異なっていることが分かります。

欧米では、仮に家族構成員が重大な犯罪を犯したような場合でも、「家が責任を取れ」などとは言われません。

社会が家族を強く非難したり、バッシングしたりすることはまずないのです。

家族がバラバラの個人からできているために、「親は親。子どもは子ども」「夫は夫。妻は妻」と、親子や夫婦の間が、独立した人格の関係と考えられるからです。

ここには、欧州で12世紀に成立した個人の伝統が連綿と受け継がれています。

しかし日本では、家族構成員の犯罪や不祥事には、「家が責任を取れ」と「世間」から非難されるのが普通です。

家族は一体であって、一人一人が独立の人格を持つ個人だとは考えないからです。

それはあたかも、犯罪者の家族もまた責任を負わされた、江戸時代の連座責任や縁座責任の亡霊が、いまだに生き続けているかのようなのです。

根強い「家意識」の存在 「家柄がつり合わない」は差別

バッシングの三つ目の理由は、個人を認めない「家意識」の存在。

これはきわめて厄介な問題です。

確かに戦後、明治民法にあった「家制度」は消滅し、両性の本質的平等を掲げる現行民法が成立しました。

また憲法24条には、婚姻は「両性の合意のみに基いて成立」すると書いてあります。

これは、戸主が子どもの結婚の同意権を持ち、結婚の自由がなかった戦前の「家制度」を否定し、人生の伴侶を決める結婚は個人と個人のつながりであり、結婚の自由が尊重されなければならないことを宣言したものです。

ところが、法律上の「家制度」は消滅したのだが、結婚は個人と個人のつながりではなく、「家」と「家」とのつながりであるとする「家意識」に基づく結婚観が、今も厳然と存在します。

これが、部落差別などの深刻な結婚差別につながっているのです。

ちなみに、2017年に実施された愛知県の県民意識調査によれば、結婚相手の家柄を問題にすることについて、「当然」とした答えが27.2%を占めました。

これと「おかしいと思うが反対しても仕方ない」を合わせると、実に64.4%になるそうです。

これにたいして、「間違っている」と答えたのは31.2%にすぎないそう。

結婚が個人と個人のつながりでないため、「借金トラブル」などの「母の品格」を問題にして、小室さんが秋篠宮家の婚約者としてふさわしくない、との主張をしたメディアも多かったのです。

これは端的にいって、小室家と秋篠宮家では「家柄がつり合わない」といっているのと同じで、憲法14条(法の下の平等)で禁じている「門地」による差別にほかなりません。

日本のTwitterユーザーの匿名率は75%以上 他国に比べ突出、誹謗中傷の温床に

昨年の結婚時には、メディアやネットの誹謗(ひぼう)中傷による眞子さんの「複雑性PTSD」が公表されました。

天皇に対する直接のバッシングは見当たりませんが、皇室に対するバッシングは実は以前からありました。

1993年には皇后美智子さま(当時)が倒れて「失語症」となり、2004年には皇太子妃雅子さま(当時)の「適応障害」が公表されています。

総じて言えば、これらのバッシングは、皇室の一員が、個人であろうとすることに対する「世間」の反発だと考えられます。

天皇家の一員という身分に反するような個人の振る舞いは、「わがまま」だといった批判がされたのです。

かつての皇室バッシングと、今回の小室さんバッシングが決定的に異なっていることは、誰でも自由に発信ができ、それがリアルタイムで爆発的に広がるインターネットが普及していることです。

日本はSNSのTwitterユーザーの匿名率が75%以上で、他国の30~40%と比較して突出して高く、これがネットの誹謗中傷をまん延させる大きな要因になっているのです。

公益性のある内部告発などは別としても、実名でネットに発信できないような内容は、匿名でも発信すべきではないと考える必要があると思われます。

それが、日本に「自分は自分。他人は他人」という個人を生み出す一歩になると考えるからです。

ネットの声

「一般人への公官庁、公務員が特別対応等現在も継続している点、個人の意思での海外滞在に対する年間8億ともいわれる警備費の支出の可能性などが問題なのである。」

「元皇族も結婚すれば一般人という前提だが、僕は違うと思う。結婚し皇籍降下しても、元皇族は元皇族であり、一般人となる事は出来ない。此の結婚は一般人同士の結婚とは異なり、国民の象徴である皇族の結婚問題であるから、国民として皇族のありように意見することも当然許される(筆者に反論するならば、戦後は人間宣言により、戦前日本の不敬罪がありません)。又、NYでの彼らの生活費について国費が投入されていることなどからして、税金の使い道として納得できないという意見もある。」

「至極当たり前の話ですが、通常、物事は事実の積み重ねで今の結論がある。そしてこの結論になったのはこの事実があるから、と振り返ることができる。積み木に例えると、まっすぐ安定た土台の上に結論という積み木が乗っている感じ。それを《世間と逆の事を言ってやろう》という妙な自己顕示欲を持つと、佐藤直樹さんのように自分の思惑を先に用意して、そこに向かっていびつで関係のない事実を積み重ねて結論に辿り着くので、誰も共感できない理論となる。さっきの積み木に例えると、「結論という積み木をここに持ってきたいから」と無理やり斜めに斜めに積み木を積んで崩れてるイメージが浮びました。」

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