中嶋悟が語るアイルトン・セナとの1年間

中嶋悟が明かすアイルトン・セナとのエピソード。

ブラジルでの最初のアドバイスは「水の飲み方と一般道の走り方」

中嶋悟が明かすアイルトン・セナとのエピソード。

ブラジルでの最初のアドバイスは「水の飲み方と一般道の走り方」

日本人初のF1フル参戦

1986年に全日本F2選手権を3連覇し、同じ年に国際F3000フル参戦初年度ながらランキング10位となった中嶋は、1987年からロータス・ホンダでF1への切符を掴んだ。

チームメイトは当時新進気鋭のセナ。

中嶋は「速いし先輩だし、ちょっとショックを受けました。周りに何をしたらこうなるのかって聞いたくらいでした」という。

しかし、そんなセナから1987年に中嶋は様々な指導を受けたと明かした。

セナから指導を

「シーズンが始まってからは色々とご指導いただきました」
「いつも言っていることですが、本当に優しかったです。言い換えると僕を敵だと思っていないので(笑)」

「ヨーロッパでいくつかのサーキットを走ったことがありましたが、それ以外のところは全て初めてだったので、あらゆるサーキットでコース図を見ながら、『ここは絶対に気をつけろ』と教えてくれました。1年目は全てそういう指導をしてくれました」

「鈴鹿の時は嬉しいことに、『こんな感じ?』ってちょっと聞いてくれたんです。僕よりも速いんだから良いだろって思いましたけど、デグナーカーブに入るところだとF1はまあまあ速いですからね」

また、ジャカレパグアで開催された1987年ブラジルGP、中嶋にとっては初のグランプリでは、現地ならではアドバイスを地元出身のセナから受けたという。

「水の飲み方と一般道路の走り方のレクチャーを受けました」と中嶋は言う。

「ブラジルはルール(道路交通法)がないようなモノでしたから『パンクしても止まるな。夜は赤信号でも止まらず、周りを見ながら渡れ。とにかく止まることが最悪だ』と」

ブラジルでの生活も

「それと、お腹を壊す人が多かったので、水の飲み方はすごい真剣に教えてくれました」

「例えば、当時はピットに立派な建物があったわけではないので、飲み物も水と氷を放り込んだ大きな水槽の中にありました。水もペットボトルではなくて、プリンみたいなカップに入っているモノでした」

「自分ならフタを取って飲みますが、全てを取らずフタを残して、容器の外側に一切口をつけずに飲むようにと教えてくれました。僕には、それが最初のアドバイスでした」

またその年のモナコで中嶋は、Hパターンシフトでの度重なるギヤチェンジによって手の皮が剥けないよう、セナからテーピングを受けていたという。

「これはブラジルではなく初めてのモナコでの話ですが、セナは『ここは何度も何度もギヤチェンジをするから、皮がめくれてしまう』と言って、朝に薬を渡してくれて、彼が(テーピングを)巻いてくれました。そういう意味では、優しかったですね」

そして中嶋はセナとの思い出を振り返り、次のように続けた。

「色々思い出すことは多く、たった1年の付き合いですが、改めてすごいやつだったなという気がします。やっぱり人気になるべくしてなった人ですよ」

「速いですし、特にホンダさんとの付き合いもあり日本のファンも多く、全てがマッチしてスーパースターになったんだと思います」

ネットの声

「セナにもピケにも優しくされた中嶋さん。F1参戦一年目で完成度の低いアクティブサスに悩まされたりやたらデカくて重いカメラ機材積んでカメラマンまで担当させられて大変だったと思います。セナはちゃんとフォローしてたんですね。
当時はまだまだ世界で戦う日本人アスリートが少なかった時代にF1ドライバーの一員として海外を転戦する中嶋さんの姿に熱くさせられました。」

「当時のF1はターボからNAエンジンに移行してタイムが遅くなるかと思ったら逆にコーナリングスピードが上がって速くなるコースもあって、ドライバーは大変だったと思う。パワステも無かったし。
中嶋悟さんが、(セナの速さにだけは脱帽する。セナのように他のドライバーよりコンスタントに1秒速く走るのがどれだけ大きな肉体的精神的ストレスになるか知っているからだ。)と語っていたのが印象深いです。」

「このエピソードは、中嶋氏が日本人であることと無関係ではないでしょう。
1978年、カートでシリーズチャンピオンのご褒美にSUGOのジャパンカートプリに出してもらったはいいが、たった一人での来日でサポートもなく、言葉も分からず食事さえままならない中、周りの関係者の方々に助けられて出走したそうです。
そのような恩をF1に上がってからも忘れなかったセナが自然に、しかも必然的にとった行動と思われます。」

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