島津が関ヶ原の戦いで行った死亡率100パーセントの戦法とは!?

死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!?

乱世の戦国時代がいよいよ終わりつつあった1600年、かの関ヶ原の戦いで、島津義弘が企てた「捨て奸(すてがまり)」という戦略がありました。

命を賭した戦法

これはなんと、敵軍の中を正面突破して、とにかくいくら犠牲を払ってもいいから敵をできるだけ長い時間足止めし、本隊だけは逃れさせるというものでした。

当時は、徳川家康と石田三成が、それぞれ大名たちを動員して東軍・西軍に分かれて戦いを繰り広げていました。

島津は西軍です。

しかし次第に形勢不利になっていく中で、撤退戦略として採用されたのが「捨て奸」だったのです。

部隊の最後尾を務めるしんがりの中から、さらに少部隊を置き、追ってくる敵を食い止めるために死ぬまで戦わせます。

小部隊が全滅したらまた新しく小部隊を置き、敵を食い止める。これを繰り返し、その間に本隊と大将が逃げることができれば成功と見なす、という戦法でした。

島津隊は退路に配置した銃を持つ兵士たちに、あぐらをかいて座らせました。

膝を立てて銃を構えるのではなく、あぐらにしたのは重心を固定して命中率を上げるためだったそうです。

このことから、捨て奸は「座禅陣」とも呼ばれています。

そうして敵の指揮官が追ってきたら、兵士たちは狙撃し、槍で突撃するのです。

この戦法が行えたのは、島津隊の銃の装備率や、経験値が豊富だったからこそです。

これにより東軍は、松平忠吉と井伊直政が重傷を負っています。

島津義弘と忠臣たち

ところで、「捨て奸」は兵士たちの覚悟も注目に値します。

島津隊では、漫画『ドリフターズ』でおなじみの島津豊久や家老の長寿院盛淳など、多くの武将が犠牲になりました。

敵兵を食い止める役割を負わされた兵士たちは、相当の覚悟が必要だったでしょう。

この戦法は玉砕戦術、トカゲの尻尾切りと言われても仕方がない内容でした。

しかし島津隊には、100%の確率で死ぬと分かっているのに自ら犠牲になった者が多かったそうです。

その一人である長寿院盛淳は、島津家の家老の一人。彼は義弘の影武者となり、「我こそは島津義弘である!」と大声で名乗って敵前に突入していったとか。

兵士たちがそこまでして義弘を守ろうとしたのは、義弘の人柄ゆえでもありました。

義弘は家臣に公平に接し、兵卒への気配りも忘れないとなど常に人を大切にする人で、とても慕われていたそうです。

その後、義弘の死後には、13名もの家臣が殉死したとか。

「捨て奸」での、「死んでも義弘を守る」という兵士たちの覚悟は、義弘の人柄と、普段から築き上げてきた信頼関係があったからこそだったのでしょう。

別名「島津の退き口(のきぐち)」

こうして「捨て奸」は別名「島津の退き口(のきぐち)」として伝説のように語られています。

言うまでもありませんが、この「捨て奸」「島津の退き口」「座禅陣」という戦法を採用したのは、日本史上、後にも先にもこの関ヶ原の戦いの島津義弘のみです。

玉砕や特攻が「戦法」として採用されるのは、基本的にありえないこと、あってはならないことだと言えるでしょう。

ちなみに、あまり問題にされることがないですが、「捨て奸」という言葉の意味はよく分かっていません。

もともと「奸」は当て字で、「捨てがまり」という言葉自体が独特の方言ではないかと言われているようです。

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