
2026年3月10日、東京大空襲から81年の節目を迎えました。
1945年3月10日未明、アメリカ軍のB-29爆撃機約300機が東京の下町に大量の焼夷弾を投下し、わずか数時間のうちに約10万人もの命が奪われました。
100万人以上が罹災したこの未曽有の惨禍は、今もなお語り継がれるべき歴史の傷痕として刻まれています。
そして今年の式典は、例年とは異なる深い意味を持っていました。
長年にわたって東京大空襲の記憶を語り継ぎ、慰霊活動をライフワークとしてきたエッセイストの海老名香葉子さんが、昨年2025年12月24日に92歳で永眠されたからです。
「時忘れじ」——それは彼女が最も大切にし続けた言葉であり、今年からの式典はその言葉を遺言として受け継ぐ新たな出発点となりました。
目次
東京大空襲とはどのような出来事だったのか
東京大空襲は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月10日未明に起きた、アメリカ軍による東京への大規模な無差別爆撃です。
マリアナ諸島の基地を飛び立ったB-29爆撃機の大編隊が、東京の東側・下町地域を中心に焼夷弾による「じゅうたん爆撃」を行いました。
当時の東京下町は木造家屋が密集しており、強風も重なって火災は瞬く間に燃え広がりました。
わずか2時間半ほどの爆撃の間に、死者は約10万人、罹災者は100万人以上、焼失家屋は約26〜27万戸にのぼったとされています。
一夜にしてこれほど多くの一般市民が犠牲になった通常爆撃は、世界史上でも類を見ない規模のものでした。
なぜこれほどの被害が出たのか
この空襲が「ミーティングハウス2号作戦」と名付けられた理由の一つは、春一番のように強い風が吹くと予報された3月10日を狙い撃ちにしたことでありました。
焼夷弾は建物を直接破壊するのではなく、火災を広げることを目的とした焼夷性の爆弾です。
木造家屋が密集する下町に、強風の夜、大量の焼夷弾が投下されたことで、火は凄まじい勢いで四方へと燃え広がりました。
さらに当時は「防空法」によって空襲の際の避難が制限されており、消火活動に従事しようとした住民たちが逃げ遅れるケースも相次いだとされています。
隅田川には炎を逃れようとした人々が殺到しましたが、川の水面もまた熱波と炎に包まれ、多くの方が水の中で亡くなりました。
東京大空襲はその後も続く日本各都市への大規模空襲の序章でもあり、8月の広島・長崎への原爆投下へとつながる悲惨な戦禍の連鎖の一部でもあります。
海老名香葉子さん——11歳の戦災孤児が紡いだ平和の言葉
海老名香葉子(えびな かよこ)さんは1933年(昭和8年)10月6日、東京・本所(現在の墨田区)に生まれました。
父は江戸和竿の名店「竿忠」の3代目として知られた職人であり、一家は職人気質の温かい人情に包まれながら、仲むつまじく暮らしていました。
近所との人付き合いも豊かで、海老名さんは明るく活発な子どもとして育ったといいます。
しかし1945年3月10日、その幸せな日常は一夜にして消え去りました。
当時11歳だった海老名さんは静岡県沼津市の叔母のもとへ疎開しており、東京大空襲を直接体験することはありませんでした。
しかし空襲の4日後、ボロボロになった兄が叔母の家を訪ねてきて「みんな死んじゃった。守れなかった」と泣きながら伝えたのです。
その一言で、父・母・祖母・兄2人・弟の計6人を一夜にして失ったことを知りました。
唯一生き残ったすぐ上の兄とともに、幼い海老名さんは戦災孤児となったのです。
体験を綴った著書と平和への活動
戦後、父の得意先だった落語家の3代目三遊亭金馬さんに引き取られ、1952年に「昭和の爆笑王」と称された初代林家三平さんと結婚しました。
おかみさんとして林家一門を支える傍ら、海老名さんは自らの戦争体験を文章に記し続けました。
1985年に刊行された自伝的エッセイ『うしろの正面だあれ』は、関連本を含めて50万部以上が刊行されるロングセラーとなりました。
1991年には劇場用アニメーション映画としても公開されており、多くの人々に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝え続けてきました。
また2005年には私財と寄付によって、東京・上野公園(台東区)に慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と母子像「時忘れじの塔」を建立しました。
毎年3月9日には慰霊の集い「時忘れじの集い」を主催し、体験者や遺族、若い世代が集まる場を長年にわたって守り続けてきました。
2021年には、この継続的な追悼活動に対してアメリカ政府から感謝の書簡が届けられたほどです。
「時忘れじの塔」——忘れないために建てた場所
上野公園の清水観音堂近く、いこいの広場に立つ「時忘れじの塔」は、海老名さんが長年の夢として実現させた慰霊の場所です。
塔には時計が組み込まれており、子を抱く母の力強い視線の母子像が添えられています。
その台座には次の言葉が刻まれています。
「東京にも、現在からは想像もできない悲しい歴史があります。今、緑美しい上野の山を行き交う人々に、そのような出来事を思い起こしてもらうとともに、平和な時代へと時をつなげる心の目印として、この時計台を寄贈しました。 初代林家三平妻 海老名香葉子 建立有志一同」
「時忘れじ」という名前には、関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)という東京が経験した二度の大惨禍を、決して時の流れの中で忘れてはならないという強い願いが込められています。
この塔は単なる慰霊碑にとどまらず、現代を生きる人々が日常の中で立ち止まり、平和について考えるための場所として機能しています。
81年目の式典——遺言として受け継がれる思い
海老名さんは昨年2025年12月24日、老衰のため92歳で静かに息を引き取られました。
そして2026年3月10日、大空襲から81年の節目となる今年の式典は、海老名さん亡き後はじめて行われる「時忘れじの集い」となりました。
息子の落語家・林家三平さんは式典に出席し、「母の思いをともし続けていきたい。子どもたちに思いがつながるように、この会を続けていきたい」と言葉を絞り出しました。
海老名さんが生前に語っていた「戦争の恐ろしさを伝えていくのが平和の一環だ。小さな声でも上げていきましょう」という言葉は、今や遺言となって多くの人の胸に刻まれています。
戦争は過去のことではない——今なお続く惨禍と記憶の使命
東京大空襲から81年が経ちました。
しかし世界に目を向ければ、今も各地で戦争や紛争が続いています。
ウクライナでの戦争は長期化し、中東でも多くの一般市民が命を落としています。
かつて海老名さんはウクライナの戦禍に心を痛め、「手をつなぎましょう」という言葉を込めた歌詞を書き下ろしました。
戦争の悲惨さは時代や地域を問わず、同じように人々の命と幸せを奪います。
3月10日の東京大空襲、8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下、6月23日の沖縄慰霊の日、そして8月15日の終戦の日——これらの日付は単なる暦の上の記念日ではありません。
日本各地にはそれぞれ独自の空襲の記憶を伝える日があり、そこには名もなき多くの命の記録が眠っています。
戦争体験者が年々少なくなっていく中で、記憶をどのようにして次世代へ伝えるかは、今を生きる私たちが真剣に向き合わなければならない課題です。
海老名さんは生前、こう語り続けていました。
「街も家もなくなり、優しかった人たちも皆いなくなった。戦争ほど、醜く恐ろしく悲しいものはない。二度と地球上に戦争がなきよう祈るばかりです」と。
時忘れじ——その二文字が、今年の式典から遺言として静かに、しかし力強く、私たちへ語りかけています。
戦争の悲惨さを知る語り部たちの声は、もはや取り替えのきかない宝物です。
その声を受け取った私たちが、これからどのように語り継いでいくのか。
81年目の3月10日は、そのことを改めて問いかける一日となりました。

