確かに『横須賀ストーリー』から山口百恵の歌の雰囲気が変わったね

16歳の山口百恵から作曲依頼を受けた宇崎竜童「どれも本当の彼女がいない気がした」…『横須賀ストーリー』の誕生の瞬間

今から50年前の1975年4月20日に発売された『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』。

その曲を歌ったダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童は、山口百恵の歌手としての人生を変えていた。

いったいなぜなのか。

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』は冒頭の言葉が『スーダラ節』に…

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは、1974年の暮れにリリースした『スモーキン・ブギ』がヒット。

続く『カッコマン・ブギ』のB面曲だった『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』も、曲中のセリフ「あんた、あの娘のなんなのさ」が流行語になるほど大ヒットして一世を風靡した。

リーダーで作曲家でもある宇崎竜童が歌詞をもらって困ったのは、この『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の1回だけだったという。

「一寸(ちょっと)前なら覚えちゃいるが」という冒頭の言葉にメロディをつけようと思っても、「ちょいと一杯のつもりで飲んで?」と始まるナンセンス・ソング、クレージーキャッツの『スーダラ節』になってしまう。

すっかり困ったあげく、ギターを8ビートで刻みながら歌詞を喋ってみると、「あんた、あの娘の何なのさ」というパートを台詞にするアイデアが浮かんだ。

続いて「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ」のパートも、メロディーが出来てきた。

じゃ、その本編はどうしようと思って喋ってるうちに、あれは例えば道路工夫の歌、有名な機関車の運転手とか、バラードというのか、トーク・ソングというのか、物語をずっと歌手が語って、その人の名前を最後に一節歌って、その人の名前を言って、今度、二番に行くというのがあったことを思い出した。(宇崎竜童)

横浜から横須賀へと流れていった商売女を捜している男と、女と接点を持った連中の証言で成り立つユニークな歌が、子どもの頃から聴いてきたカントリー音楽の中にあった“トーキング・ブルース”を思い出したことで、『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』は完成した。

不良をイメージさせる強面のルックスとつなぎのファッションに相応しく、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの歌は、社会の底辺に生きる人間たちのリアルな声、反逆的な歌詞や物語が特徴だった。

彼らは日本で最も有名な刑務所の歌『網走番外地』を、デビュー・アルバムの『脱・どん底』に入れたが、レコ倫からは発売禁止の処置を受けている。

こうして『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』などのヒットによって、作家として楽曲の依頼が入り始めた宇崎竜童は、研ナオコに『愚図』を提供して歌手として成功に導き、作詞した夫人の阿木燿子とのソングライター・コンビで活躍していく。

決定的となったのは、一人のアイドル歌手との出会い。それは日本の歌謡史における、歴史的瞬間の一つとして語り継がれることになる。

「宇崎さんの曲を歌ってみたい」

ホリプロダクションの傘下にある音楽制作会社、東京音楽出版の原盤制作ディレクターとして、モップスや井上陽水を手掛けていた川瀬泰雄が新たにスタッフに加わったのは、山口百恵の3枚目のシングル『禁じられた遊び』(1973年11月)からだった。

その後、5枚目の『ひと夏の経験』(1974年6月)で、シングルチャート初のベスト10入りを果たすと、7枚目の『冬の色で』(1974年12月)で遂にNo.1を獲得した。

ところが一度ピークを極めると、それまでの路線に少しずつ閉塞感のようなものが立ち込めて、新しい方向性を打ち出す必要が出てくる。

スタッフの間で、ニューミュージックやロック系のアーティストに楽曲を依頼することが検討され始めた。

候補に挙がったのは、井上陽水や矢沢永吉、中島みゆきらであったという。

そんなとき、川瀬は山口百恵本人から、「宇崎さんの曲を歌ってみたい」と聞かされる。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのロッカバラード『涙のシークレット・ラヴ』を聞いて、鳥肌が立ったと言うのだ。

当時は、アイドル自身が作家についての希望を述べることはもちろん、スタッフがその意見を受け入れて楽曲づくりを依頼することなど、普通では起こりえないことであった。

だが中学生でデビューしてから2年半、歌手として信じられないほどの表現力を身につけていった山口百恵に対して、制作スタッフたちは「明確な意志を持つアーティスト」として、対等に接するようになっていく。

一方、電話で依頼を受けた宇崎は、驚きと共に戸惑いもあった。

反体制のイメージで売れたロックミュージシャンが、オーディション番組からデビューした「花の中三トリオ」の一人であるアイドル歌手に曲を提供する。当時は結びつくはずもない相反する世界観だったからだ。

しかし、宇崎はあることに気づく。

本当の自分の歌と出会えた山口百恵

山口百恵の歌には、どれも本当の彼女がいない気がしたのだ。

山口百恵と同じ横須賀育ちである、阿木燿子の存在も大きかった。

百恵自身が、デビューから徐々に成長していくにしたがって、男性の作詞家が描く少女心理の世界に、百恵は没入することが、だんだん困難になってきたのだろう。そこへ阿木さんの登場である。(川瀬泰雄)

阿木耀子の書く無垢な少女のイメージは、生きて呼吸している山口百恵自身と見事に重なるものだった。

山口百恵は本当の自分の歌と出会うことになったのだ。

こうして13枚目のシングル『横須賀ストーリー』(1976年6月)はヒットチャートのトップを駆け上がり、アイドルとしての人気を拡大したにとどまらず、山口百恵をカリスマ的なスターにまで押し上げていったのである。

その後、『イミテイション・ゴールド』『プレイバックPart2』『しなやかに歌って』『謝肉祭』『ロックンロール・ウィドウ』『さよならの向こう側』など、宇崎と阿木のコンビ作品は、山口百恵の歌手人生にとって欠かせないものになった。

後年、“三浦百恵”となった伝説の歌手は、当時をこう振り返った。

阿木さんの詩を宇崎さんのメロディにのせて歌う時だけが、本気になれた。

歌うというよりも、もっと私自身に近いところで歌が呼吸していた。

思えば阿木さんの詩を歌い始めた頃から、実生活での私の恋も始まったのだけれども、阿木さんの詩の中に書かれた言葉が、私に恋という感情のさまざまな波模様を教えてくれたようにも思う。

恋をする中で感じた思いを、詩の中に言葉として見つけだしていた。

ネットの声

「百恵さんと同い年の私たちは、常に彼女の動向を気にしていたと言ってもいい。
「昨日、百恵がさぁ」等と歌番組の感想を、まるでクラスメイトのように喧しくお喋りのネタにしていた。
そんな頃、タクシーのカーラジオから流れてきた「横須賀ストーリー」のインパクトは今も忘れない。
阿木燿子・宇崎竜童夫妻は曲を作り発表するだけでなく俳優としても良い味を出していた。
演じることで役柄と融合する。そんな所が百恵さんにも共鳴したのかなと思う。
夫妻が提供した百恵さんの曲で一番好きなのは「曼殊沙華」。あの情念の世界を自分のものとした彼女は、やはり同い年であっても遠い人だと今もしみじみ思う。」

「横須賀ストーリーをYouTubeで聴いていたら畑中葉子のカバーがあったので聴いてみたら、アレンジが大胆で斬新でこれも結構良かったです。
ここ数年山口百恵を聴くようになったのは、浜田省吾や谷村新司提供曲から入ったのですが、山口百恵が作詞して浜田省吾作曲の、「銀色のジプシー」が気に入ってます。
あと、「テレパシーナ」と云う曲がテクノミュージックな感じで後のPerfumeやきゃりーぱみゅぱみゅに通ずるものも感じています。
山口百恵本人が1番気に入ってる曲は阿木燿子宇崎竜童の「曼殊沙華」ですね。」

「荒井由実と松任谷正隆、桑田佳祐と原由子、山下達郎と竹内まりやは音楽を通じて知り合ったけど、宇崎竜童と阿木耀子は大学キャンパス内でのナンパ。
不思議な力が才能と才能を結びつけたんだね。」

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