
2011年3月11日、あの揺れと津波の記憶は、今もどこかでひとの胸の底に棲んでいます。
あれから15年が経ちました。
批評家・若松英輔さんは、東日本大震災をきっかけに詩を書くようになった人物です。
批評という言葉の形では書ききれない何かが、心の中からあふれてきたからだといいます。
その言葉たちが結実した初の詩集『見えない涙』(亜紀書房)には、喪失と悲しみを静かに見つめる26篇が収められています。
その中の一篇「見えないこよみ」に、こんな一節があります。
こころには/誰の眼にも見えないこよみがあるのです/その人しか知らない/たましいのこよみ
この詩を読むたびに、胸のどこかがきゅっと締まる気がします。
関連死を含む死者は1万9709人、今なお行方不明者は2519人——そうした数字が示す震災の深さは、どんな言葉でも一括りにはできない15年であったはずです。
目次
「15年」という言葉が持つ重さ
「震災から15年」という言葉は、メディアや公式の場でごく自然に使われます。
しかし、その言葉をいざ自分の口で言おうとすると、どこかで手が止まる感覚があります。
15年という時間は、生まれた子どもが高校生になる歳月です。
それだけの年月が積み重なっても、愛する人を失った人にとって「あの日」は決して遠い過去にはなりません。
警察庁が2026年3月9日に発表した最新データによれば、死者1万5901人(直接死)、関連死を含めると1万9709人、行方不明者は2519人にのぼります(2026年3月1日時点)。
行方不明者の内訳は、宮城県が1213人でもっとも多く、次いで岩手県1106人、福島県196人と続いています。
これまでに延べ約72万人の警察官が捜索に当たってきましたが、今もなお2000人を超える人々の行方はわかっていません。
若松さんが詩集に込めた「たましいのこよみ」という言葉は、まさにこの現実を静かに照らしています。
遺族にとって時間は一様には流れません。
社会にとっての「15年」と、肉親を失ったひとりひとりにとっての「15年」は、まったく別のものです。
外から見える暦と、こころの内に刻まれた暦は、けっして同じではないと若松さんの詩は静かに語りかけています。
今も続く避難生活
復興庁の発表によれば、2026年3月時点でも全国で約2万6000人以上が避難生活を送っています。
福島第一原発事故の影響で、いまだ一部の地域では避難指示が続いており、故郷に帰れない住民も少なくありません。
15年という時間が、すべての傷を癒やしたわけではないことが、この数字からも伝わってきます。
詩人・若松英輔が震災後に見つけたもの
若松英輔さんは1968年、新潟県糸魚川市生まれの批評家・随筆家です。
慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、文芸批評の世界で活躍し、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授も務めました(2018〜2022年)。
2007年には「越知保夫とその時代 求道の文学」で三田文学新人賞を受賞し、2016年には『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で西脇順三郎学術賞を受賞しています。
しかし、そんな若松さんが詩を書き始めたのは、東日本大震災の後のことでした。
詩集の後書きによれば、若松さんはそれまで詩を「興味のままに手にするだけ」で、深く愛しているとは言えなかったといいます。
それが変わったのは、震災後に悲しみの極致にある人々と向き合う中で、泣く声さえ失い、涙さえ涸れ果てた人たちの存在に気づいたからです。
そこで若松さんにとって、詩は「あった方がよいものから、なくてはならないものへ」と変わっていきました。
批評という言語が届かない場所に、詩はそっと手を伸ばしてくれます。
そのことを身をもって感じた経験が、詩集『見えない涙』を生み出した原動力でした。
詩歌文学館賞受賞が示す評価
詩集『見えない涙』は2017年4月に刊行され、翌2018年に第33回詩歌文学館賞詩部門を受賞しています。
2024年11月に逝去した詩人・谷川俊太郎は、詩集の推薦文で「活字から声が聞こえる、若松さんの詩には体温がある」と評していました。
作家の石牟礼道子は「詩情のきよらかさに搏たれる。それはただの純情ではなく、ぎりぎりまでものを考える知性で裏打ちされている」と称えています。
批評家が書く詩でありながら、難解ではなく、むしろ平易で素朴な言葉が連なります。
その素朴さの底に、長年の思索が静かに沈んでいる——それが若松さんの詩の真骨頂といえるでしょう。
詩「燈火」が灯すもの
詩集の巻頭を飾る「燈火(ともしび)」という詩は、震災で逝った者への深い祈りを言葉にしています。
あなたが逝った/あの日から/その一粒のうえに/見えない涙を/毎日/注いでいます/見えますか/ほのおのような/深紅の花が/咲きました
「見えない涙」とは、声を失った悲しみのことです。
泣き叫ぶことさえできない深みにある悲しみは、目には見えません。
しかし若松さんは、その見えない涙が注がれ続ける場所に、深紅の花が咲くと詠みました。
悲しみは消えることなく、愛する人への思いとともに、静かに花を咲かせ続けているのです。
その言葉は、遺族に向けられているだけではありません。
あの震災を遠くで見ていた人、記憶が薄れかけている人、当時まだ生まれていなかった人——すべての人に向けて、燈火はそっと灯されています。
「見える悲しみ」と「見えない悲しみ」
被災地に行けば、防潮堤や復興住宅など、目に見える復興の形は確かに整ってきています。
しかし心の傷と暮らしの苦境は、ハード面の整備が進んでもなお続いています。
目に見えない悲しみは、15年経った今も各地で静かに流れています。
若松さんが詩で描こうとしたものは、まさにそのような「見えない」部分ではないか——そう読むたびに感じます。
春の列島に咲く、こころの花
3月11日、春の気配が漂い始める列島のあちこちで、黙祷が捧げられ、花が手向けられました。
岩手・宮城・福島の被災3県では追悼式が開かれ、14時46分にサイレンが鳴り響いています。
その瞬間、この国に生きるすべての人が、それぞれのこころの中で「あの日」と向き合ったはずです。
若松英輔さんの詩「見えないこよみ」は、その向き合い方を誰にも強制しません。
ただ、「こころには、その人しか知らない、たましいのこよみがある」と静かに告げるだけです。
震災で逝った人々の命日は、遺族にとってその日だけのものではありません。
毎日が、その人との時間の延長なのです。
朝ごはんの匂い、ふとした笑い声、いつもの口癖——そういったものが記憶の中でふいに蘇り、また涙を誘います。
その涙は、他の誰にも見えません。
しかしそれは確かに、今も春の列島のどこかで流れています。
若松さんが詩「燈火」で描いた「深紅の花」は、まさにその涙から咲いた花です。
悲しみの先に花は咲く——それは希望の言葉ではなく、喪失と共に生きることへの、深く静かな肯定といえるでしょう。
次の世代へ、どう伝えるか
震災を知らない世代が増える中、記憶をどう伝えていくかが大きな課題になっています。
語り継ぐことは、単に過去を知ることではありません。
「たましいのこよみ」に刻まれた無数の人生を、想像する力を育てることでもあります。
若松英輔さんが詩という形を選んだのは、批評や報道では届かない場所に、詩の言葉は届くことを知っているからでしょう。
数字では伝えきれない悲しみを、詩は一行で胸に届けることがあります。
今年もまた、春の光の中に涙の花が咲いています。
この国に生きる者として、それをただ、静かに見つめたいものです。
忘れないために、詩を読む
東日本大震災から15年が経ちました。
関連死を含む死者は1万9709人、行方不明者は今も2519人にのぼります。
避難生活を続けている人は約2万6000人、心の傷を抱えたまま日々を生きている人は、その数をはるかに超えているでしょう。
批評家・若松英輔さんは、震災後に詩を書くようになりました。
批評では書けない思いがあふれてきたから——というその言葉が、長く記憶に残ります。
『見えない涙』に収められた詩たちは、悲しみを癒やすために書かれたのではありません。
悲しみとともに生きることを、そっと肯定するために書かれた言葉たちです。
3月11日という日に、ひとりで静かに詩集を開いてみるのも、ひとつの追悼のかたちかもしれません。
「その人しか知らない、たましいのこよみ」——その言葉を胸に抱きながら、春の空の下で黙祷を捧げたいと思います。
忘れないこと。それが、今を生きる私たちにできる、もっとも誠実な行動です。
