
車を運転するすべての人に交通法規をしっかりと守ってもらい、悲惨な交通事故を一件でも減らすことは、警察に課せられた極めて重要な使命です。
そのための交通取り締まりであるにもかかわらず、取り締まりを行う警察官自らが法令に違反しながら摘発に注力するという、本末転倒な事案が神奈川県警で発生しました。
このような本来の目的を見失った組織の不正や矛盾に触れるとき、私は中世の富豪が語ったというある教訓めいた話を重ね合わせずにはいられません。
社会の秩序を守るべき立場にある者が自らルールを破るという事態は、単なる個人の不祥事にとどまらず、組織全体の構造的な問題や自己目的化という深い罠を浮き彫りにしています。
本記事では、鎌倉時代に書かれた古典文学の傑作である徒然草に記された富豪の滑稽なエピソードを紐解きながら、現代の警察組織や政治の世界に蔓延する問題の本質に迫ります。
本来の目的がいつの間にか見失われ、手段そのものが目的と化してしまう現象は、私たちの身の回りでも決して珍しいことではありません。
神奈川県警の事例から現代の政治の動きに至るまで、手段と目的が逆転してしまうことの恐ろしさと、それが国民生活に与える影響について深く考察していきたいと思います。
目次
交通取り締まりにおける本末転倒な不正
日常的に車を運転する市民に対して交通法規を厳格に守ってもらうことは、安全で安心な車社会を維持するために絶対に欠かせない前提条件です。
警察が行う交通取り締まりの最大の目的は、決して違反者の数を稼ぐことではなく、危険な運転を未然に防ぎ、尊い命を守ることに他なりません。
しかしながら、その崇高な目的を達成するための手段であるはずの取り締まり活動において、自らは法令に違反しながら摘発に注力するという信じ難い不正が神奈川県警で発覚しました。
安全を守るべき警察官が、違反者を捕まえるという行為そのものに執着するあまり、守るべき法律を自ら破ってしまうという事態は、まさに本末転倒と言わざるを得ません。
ノルマの達成や実績作りといった組織内部の論理が優先され、県民の安全を守るという本来の使命が完全に脇に追いやられてしまった結果であると推測されます。
このような矛盾した行動は、取り締まりを受ける市民の警察に対する信頼を根底から揺るがし、ひいては交通ルールそのものへの軽視を生み出しかねない非常に危険な兆候です。
私たちは、組織の中で働く人間が、いかに容易に本来の目的を見失い、目の前の作業や数値目標にとらわれてしまう生き物であるかを、この事件から痛感させられます。
社会の模範となるべき権力を持った機関において、手段が目的化してしまう現象は、単なるミスや個人の倫理観の欠如という言葉だけで片付けてはならない深刻な病理を含んでいます。
目的を忘れた手段の暴走は、最終的に誰の利益にもならないばかりか、社会全体の秩序とモラルを破壊していくという事実を、私たちは重く受け止める必要があります。
徒然草に学ぶ自己目的化の滑稽さと罠
神奈川県警の引き起こしたこの不可解な不正事件の構造を考えるとき、私は大伴茫人編『徒然草・方丈記』(ちくま文庫)の徒然草から抜粋した、ある中世の富豪の話を思い出します。
その富豪は、貧しくては生きている甲斐がないと語り、莫大な財を築き上げるための独自の心得を人々に説いて聞かせました。
彼によれば、心の中に少しでも欲望が兆したならば、それは悪念が取り憑いたのだと深く恐れ、自らが欲する僅かなことであっても決して満たしてはならないというのです。
さらに、手に入れた銭をまるで主君や神仏のごとく畏れ尊び、決して自分の思うままに無駄遣いしてはならないと厳しく戒めました。
貧しくては生き甲斐がないと豪語して富を求めながらも、その実態といえば、お金を使わないために極貧の人と全く変わらないようなみすぼらしい生活を送っているのです。
富を得ることは、本来であれば人生を豊かにし、快適な暮らしを送るための単なる手段に過ぎないはずです。
しかし、この富豪は財産を増やすこと自体が人生の絶対的な目的となってしまい、お金を使って幸せになるという本来の目的を完全に見失ってしまっています。
これは、本来の目的が見失われ、手段が目的と化す自己目的化の最も典型的な例であり、人間の持つ滑稽さと愚かさを鋭く突いた非常に深い洞察だと言えます。
法令違反は論外として、この富豪のように権力や富を持つ者がこの罠にかかってしまうと、単なる笑い話では済まされなくなります。
目的と手段が逆転した状態で権力が行使されれば、周囲の人々や社会全体を理不尽なルールや抑圧的な環境に巻き込み、多大な損害を与えてしまう危険性が高いからです。
高市首相の国民会議に見る自己目的化の影
手段が目的化してしまうというこの恐ろしい現象は、決して遠い昔の古典文学の中だけの話でも、一部の警察組織だけの問題でもありません。
現在の日本の政治の中枢においても、同じような自己目的化の影が忍び寄っていることを危惧させる動きが見受けられます。
消費税減税などを本格的に検討するために、高市首相の肝いりで新たな国民会議が華々しく発足しました。
物価高騰に苦しむ国民の生活を少しでも楽にするために、税制のあり方を根本から見直すというその出発点自体は、非常に意義深いものだと評価できます。
しかし、その会議は当初から超党派による幅広い議論をうたいながらも、実際には野党1党のみの参加で拙速にスタートさせるという判断が下されました。
与野党の垣根を越えて、真に国民のためになる政策を議論し合うという本来の目的よりも、会議を立ち上げたという実績作りや政治的なアピールが優先されているように見えてなりません。
野党が十分に揃っていない不完全な状態で会議を発足させたという事実の裏には、議論を深めることよりも、政権としてのやってる感を演出するという自己目的化の影を見ないでもありません。
政治における会議や委員会は、あくまで国民の生活を向上させるための最良の解決策を導き出すための手段であるはずです。
もし、高市首相や政府が結論を急ぎすぎるあまり、幅広い意見を聞くプロセスを軽視してしまえば、最も重要であるはずの国民生活の改善という目的が疎かになってしまいます。
政治の目的が権力の維持や支持率の向上へとすり替わってしまったとき、そのしわ寄せを真っ先に受けるのは、日々の生活に直面している私たち国民に他ならないのです。
手段と目的を履き違えないために
警察の交通取り締まりにおける不祥事から、古典文学に描かれた富豪の滑稽な生き様、そして現代の政治の動きに至るまで、社会のあらゆる場面で自己目的化の罠が口を開けています。
私たちは、日々の生活や仕事の中で、自分が今行っている行動が一体何のためにあるのかを、常に立ち止まって問い直す習慣を身につける必要があります。
ルールを守らせるためにルールを破ったり、豊かになるためにお金に縛られて貧しく暮らしたり、国民を救うための会議が単なる政治的パフォーマンスに堕してしまったりしては本末転倒です。
権力を持つ者こそ、自らの行動が本来の目的から逸脱していないかを厳しく点検し、手段の自己目的化という陥りやすい罠を回避する高い倫理観が求められます。
国民一人ひとりがこの社会の矛盾から目を逸らさず、本来の目的が正しく機能しているかを常に監視し続けることこそが、より良い未来を築くための第一歩となるでしょう。
