雨水と春のクマ―共生への願い

雪がとけて川になって流れていく季節がやってきた。

2026年2月19日、今日は二十四節気の「雨水(うすい)」である。

山々にはまだ雪が残り、厳しい寒さが続くこともあるが、暦の上では着実に春へと歩みを進める日だ。

俳句の世界では「笹起きる」という季語がある。山の熊笹が、季節の変わり目に積もった雪を勢いよくはねのける情景を詠んだ言葉だ。

湯治場の温泉につかりながら、そんな春の息吹を感じる人もいることだろう。

そして、この春の訪れとともに、ひとつの懸念がある。冬眠から目覚めるクマたちの動向だ。

昨年(2025年)のクマによる人身被害は過去最悪の230人(環境省速報値、4〜11月)に達した。

雨水を迎えたいま、野生動物との共生について改めて考えてみたい。

雪解けの春の山
雪解けが始まり、春の気配が漂う山の風景。この時期からクマの活動も活発になってくる。

雨水とは何か―春へと誘う暦の節目

「雨水」は二十四節気の第2番目にあたり、毎年2月18日〜19日頃に訪れる。

2026年は2月19日がその日にあたり、次の節気「啓蟄(けいちつ)」の前日にあたる3月4日までが「雨水」の期間とされている。

その意味は、気温が上昇するにつれ降るものが雪から雨へと変わり、山に積もった雪や氷もゆっくりと溶け始める頃、というものだ。

江戸時代の暦の解説書『こよみ便覧』には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」と記されており、古くから農耕の準備を始める目安とされてきた。

また、商家では「雨水から雛人形を飾ると良縁に恵まれる」という言い伝えもあり、春を祝う節目として生活に根付いてきた節気でもある。

「春一番」が耳によみがえる

「雨水」と聞けば、誰しも自然と春を意識する。

そして日本人なら、あのキャンディーズの歌声が自然と耳によみがえってくるかもしれない。

♪雪が溶けて川になって流れて行きます/つくしの子がはずかしげに顔を出します/もうすぐ春ですね―。

1976年にリリースされた「春一番」は、まさにこの季節の情景を歌い上げた名曲だ。

気象用語として「春一番」とは、立春から春分の間に初めて吹く南寄りの強風のことを指す。

雨水の頃から吹くことが多く、暖気と寒気が入り交じる「三寒四温」の繰り返しの中で、少しずつ春本番へと近づいていく。

まだ雪の残る野山でも、フキノトウや土筆(つくし)が顔を出し始め、命の芽吹きを感じさせてくれるのがこの時期である。

春の野原に芽吹く植物
雨水の頃に芽吹く草木。フキノトウや土筆など春の山菜が顔を出し始め、クマの大切な餌にもなる。

俳人・辻桃子が詠んだ「笹起きる」の世界

俳人・辻桃子(1945〜2025年)の句集に、こんな一句がある。

〈温泉に三日つかれば笹起きる〉

山あいの湯治場で温泉に身をゆだねながら、窓の外の熊笹が雪をはねのけていく様子を詠んだ句だ。

「笹起きる」は春の季語で、山の熊笹が積もった雪の重みに耐え、やがて春の気配を感じてぐんと立ち上がる様子を表す。

辻桃子は「童子吟社」の主宰として長年俳壇をリードした女流俳人で、平易な言葉の中に生命の喜びを見事に写し取る作風で知られた。

2025年6月に逝去されたが、その句は今も春の訪れを告げる言葉として鮮やかに残る。

温泉の湯気に包まれながら、窓の外で雪をはねのけて立ち上がる笹。その光景は、長い冬を越えてきた自然の強さと、春への確かな予感を伝えている。

クマの冬眠と春の目覚め―その生態を知る

雨水の頃、山の動物たちも変化を感じ取っている。

なかでも重要なのが、クマの冬眠明けだ。

ツキノワグマ(本州・四国)は例年11月頃から翌年4月頃まで、約5〜6か月にわたって冬眠する(東京農業大学・山崎晃司教授による)。

ヒグマ(北海道)は早ければ3月中旬、遅い個体は5月上旬頃に巣穴から出てくる。

冬眠はいわゆる「深い眠り」ではなく、足音だけで目が覚めるほどの浅い眠りであり、「冬ごもり」と表現されることも多い。

冬眠中は一切飲食せず、排泄もしない。体温は通常の37〜39℃から31〜35℃程度まで下がり、呼吸数も1分間に2回程度という省エネモードで数か月を過ごす。

冬眠から明けた直後のクマは、体重が30〜50%も減少しており、飢えた状態で山に出てくる。

そのため春の山菜や草木の新芽が、冬眠明けのクマにとって命をつなぐ主食となる。

子グマを連れた母グマの危険性

クマの繁殖期は6〜8月にかけてで、交尾はこの時期に行われる。

ただしすぐに着床するのではなく、秋に十分な栄養(脂肪)を蓄えた場合に限り、冬眠に入る頃(11月下旬〜12月初旬)に受精卵が着床する仕組みになっている。

メスは冬眠中の1〜2月頃に出産し、巣穴の中で授乳・子育てを行う。

冬眠中に出産したメスは、子どもを連れているため、通常より約1か月ほど冬眠明けが遅くなる傾向がある。

春に子グマを連れて出てきた母グマは、子どもを守ろうとする本能から非常に警戒心が強く、人間が近づいた場合に攻撃的になりやすい。

「子グマがいるから安全」と思って近づくことは絶対に避けなければならない。

子グマのそばには必ず母グマがいる、と考えることが鉄則だ。

森の中のクマ
冬眠明けのクマは空腹状態で活動を開始する。特に子グマを連れた母グマは攻撃的になりやすく、注意が必要だ。

里に下りる理由―ドングリと山菜の関係

クマが人里に下りてくるかどうかは、山の植物の育ちに大きく左右される。

春の冬眠明け直後は、フキ、セリ、ブナの新芽、チシマザサなどの草本類が主な食べ物となる。

夏から秋にかけてはハチ、アリなどの昆虫や木の実も食べるが、特に重要なのが秋のドングリ(ブナ科堅果類)だ。

クマは冬眠前に大量のドングリを食べて脂肪を蓄え、翌年の冬眠・出産に備える。

このため、ドングリが凶作の年は山に食べ物がなくなり、クマが人里近くまで餌を求めて出没するリスクが高まる。

2025年の記録的な被害拡大の背景にも、餌となる木の実の不作が一因として指摘されている。

加えて、クマの分布域は過去40年間で約2倍に拡大しており(日本自然保護協会)、ヒグマの推定生息数は過去30年で倍増したとされる。

里山の放棄や高齢化による見回りの減少など、人間側の生活環境の変化もクマが人里に近づきやすくなった要因のひとつだ。

過去最悪のクマ被害―2025年に何が起きたか

2025年のクマによる人身被害は深刻だった。

環境省の速報値(2025年4〜11月)によると、全国の被害人数は230人に達し、これは記録が残る中で過去最多となる数字だ。

秋田県が最多の66人、次いで岩手県37人、福島県24人と続いており、東北地方が特に深刻な被害を受けた。

死亡者数も13人(NHKまとめ、2025年12月22日時点)に上り、過去最悪の水準となった。

出没件数も3万6814件(2025年10月まで)と記録的な規模になった。

さらに深刻なのは、被害が起きる場所の変化だ。

かつては山奥や里山での事故が中心だったが、近年は住宅地や市街地での出没が急増している。

環境省の調査では、2025年7月時点で人身被害の7割が人間の生活圏内で発生しており、2年前(2023年)の7月の5割から大幅に悪化している。

スーパーへの侵入、小学校への出没など、以前では考えられなかった場所でのクマ出没が相次いだ。

📺 関連番組:NHKスペシャル「追跡調査 "クマ異常事態"の真相」(2025年11月30日放送)では、1年半にわたりGPSとカメラでクマの行動を追跡調査した結果が紹介されています。人里に侵出するクマの"真の姿"に迫った内容です。
 NHKスペシャル公式ページはこちら

なぜこれほど被害が増えたのか

被害急増の背景には、複数の要因が絡み合っている。

森林総合研究所東北支所の大西尚樹チーム長によると、根本的な原因はクマの絶対数の増加だという。

明治から昭和・戦後にかけて毛皮や食料として多く捕獲されたクマは、国の保護政策のもと数十年かけて回復してきた。

ヒグマは北海道に約1万2000頭、ツキノワグマは本州・四国に約4万2000頭以上が生息すると推定されており、増加傾向が続いている(環境省推計)。

こうした状況を受けて政府は2024年、四国の個体群を除くクマ類を「指定管理鳥獣」に指定し、「保護」から「管理」へと政策を転換した。

2025年11月には「クマ被害対策パッケージ」をとりまとめ、春期の捕獲推進なども含む対策が打ち出された。

クマ対策の予算は2025年度の34億円から、2026年度には62億円に大幅増額される方向だという。

春こそ注意が必要―冬眠明けのクマと遭遇しないために

春(4〜6月)は冬眠明けのクマが空腹状態で活動を始める時期であり、山菜採りや渓流釣りで人が山に入るタイミングと重なるため、特に事故が起きやすい。

専門家や各都道府県が呼びかける基本的な対策は以下の通りだ。

山に入る際はラジオや熊鈴などを携帯し、自分の存在を音でアピールすること。

単独行動は避け、必ず複数人で行動すること。

クマが最も活発な早朝・夕方の入山は控えること。

子グマを見かけても絶対に近づかないこと(必ず近くに母グマがいる)。

生ごみや食べ物を屋外に放置せず、クマを引き寄せる要因をなくすこと。

野生動物との共生に向けて―雨水の日に思うこと

雨水の今日、あと10日ほどで3月になる。

山々がゆっくりと雪を脱ぎ始め、フキノトウや土筆が顔を出し、川の水が増え、野に春の色が戻ってくる。

そして山の奥では、長い冬眠から目覚めたクマたちが動き始める。

人間の都合で見れば「脅威」でしかないクマも、長い自然のサイクルの中では、森の生態系を支える大切な存在だ。

ドングリや木の実を食べ、種子を山の各地に運び、森の再生を助ける役割も担っている。

しかし、それとこれとは別の話として、人が安全でなければ共生は成り立たない。

大切なのは、クマの生態をよく知り、出没しやすい場所や時期を把握し、適切な距離感を保つことだ。

クマを不用意に山から追い出すのでも、過度に保護して放置するのでもなく、科学的な個体数管理と被害防止対策を両輪で進めていくことが求められている。

政府や各自治体の取り組みはもちろん、私たち一人ひとりが正しい知識を持ち、山に入る際のルールを守ることが、人とクマの穏やかな共存への第一歩となる。

辻桃子の句が詠んだように、温泉につかりながら窓の外に笹が起き上がる春の景色は美しい。

そんな美しい春の自然を、人もクマも傷つけることなく迎えられるよう――。

野生動物との共生のスタートをうまく切れる春になることを、心から願いたい。

おすすめの記事