
♪およばぬことと あきらめました——昭和のムード歌謡「雨に咲く花」は、こんな一節で幕を開けます。
失恋の歌として知られるこの曲を、数学者の広中平祐氏は少し違う文脈で愛唱していました。
自分よりはるかに秀でた才能に出会ったとき、広中氏はこの歌を口ずさみ、「ぼく、アホやし」と開き直ったといいます。
ねたみやそねみといった負の感情を払い落とし、純粋に好きな学問へと向き直るための、広中氏なりの処世術だったのでしょう。
「数学のノーベル賞」と称されるフィールズ賞を1970年に受賞した世界的数学者、広中平祐・京都大学名誉教授が、2026年3月18日午前5時33分、東京都内で死去しました。
94歳でした。
その人生は、戦争と貧困、音楽への夢、そして数学という天職との出会いに彩られた、波乱万丈のものでした。
目次
フィールズ賞受賞の軌跡——特異点解消という難問に挑む
広中平祐氏は1931年4月9日、山口県玖珂郡由宇町(現・岩国市)に生まれました。
父は大手の呉服商や織物工場を営む裕福な家庭の7番目の子として誕生しましたが、戦争と敗戦が家族の運命を大きく変えます。
長兄と次兄は戦死し、父の会社も戦後に没落。
父は衣料品の行商人として平祐氏ら子どもたちを育てることになりました。
苦しい家庭環境の中でも、広中氏の知への探究心は旺盛でした。
幼少時には何でも質問するため、母から「なぜなぜ坊や」と呼ばれていたといいます。
1950年に山口県立柳井高校を卒業後、京都大学理学部に進学。
1954年に同学部を卒業し、その後は渡米してハーバード大学で博士号を取得しました。
1968年にはハーバード大教授に就任し、研究の最前線で活躍を続けます。
代数幾何学の世界で成し遂げた偉業
広中氏の専門は代数幾何学。
方程式で記述される曲線や曲面などの「代数多様体」を研究する分野です。
こうした図形には、取り扱いが極めて難しい「特異点」と呼ばれる部分が現れることがあります。
ジェットコースターのレールに例えると、通常は滑らかに繋がっているコースも、特異点では突如として「とがった点」が出現するようなイメージです。
この特異点をなくして滑らかな形に変換できるかどうか——それが「特異点の解消」と呼ばれる難問でした。
3次元までの解法は先人によって明らかにされていましたが、あらゆる次元に通じる一般的な解法は長らく未解明のまま残っていたのです。
広中氏は1963年の日本数学会での講演で、条件を限定した形でこの問題に取り組む方針を提案しました。
しかしそのとき、数学者の岡潔氏が立ち上がり、「制限をつけるのではなく、逆に理想化した難しい問題を設定して解くべきだ」と助言したといいます。
この逆転の発想が転機となり、広中氏は制限を外して問題を一般化する方向で研究を進めました。
その成果は1970年、フィールズ賞という形で世界に認められます。
日本人としては小平邦彦氏に次いで2人目の受賞であり、当時39歳というフィールズ賞の年齢制限(40歳未満)ギリギリでの栄誉でした。
1975年には文化勲章を受章。
昭和生まれとして初の受章者として、その名を歴史に刻みました。
2004年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章も贈られ、国際的な評価の高さを改めて示しました。
音楽家の夢を抱いた少年が、数学の道へ
世界的数学者の広中氏ですが、若いころの夢は音楽家でした。
中学・高校時代は音楽部に所属し、ピアノの演奏家や作曲家を本気でめざしていたといいます。
しかしその夢は、ある出来事によって断ち切られることになります。
町内会の催しでショパンを演奏した際、ペダルを踏まずに弾いたことで酷評を受けたのです。
その挫折が、得意だった数学へと没頭する転機になったと広中氏自身が語っています。
数学との出会いは、姉の悩みをのぞき見したとき
広中氏が数学の面白さに初めて気づいたのは、中学1年のときのことでした。
2歳上の姉が悩んでいた因数分解の問題をのぞき見し、教科書の公式を使ってすらりと解いてしまいます。
後年、広中氏は「数学が面白いと初めて感じた瞬間だった」と振り返っています。
音楽への挫折と、幼少期からの知への探究心が重なり合い、広中氏を数学の世界へと引き寄せていったのでしょう。
ハーバード大学では代数幾何学の大家オスカー・ザリスキーに師事し、デヴィッド・マンフォード(1974年フィールズ賞受賞)らと切磋琢磨しました。
広中氏は後年、「ランチを食べながらお互いに教え合い、刺激しあった」と語っています。
また、教え子の許埈珥氏は物理学専攻でしたが、広中氏の講義に感銘を受けて数学科に転向し、2022年のフィールズ賞を受賞します。
師弟二代でのフィールズ賞受賞は、数学史においてもまれな出来事です。
自分より優れた才能と出会えば「ぼく、アホやし」と開き直り、純粋に学問を愛し続けた広中氏の姿勢が、次世代の才能を育てる土壌にもなっていたのかもしれません。
数学を「人々の笑顔」と掛け合わせた教育への情熱
広中氏の功績は、世界的な数学研究の枠にとどまりません。
数学を広く社会に届けようという情熱は、研究室の外へと溢れ出していました。
1984年には財団法人数理科学振興会を設立し、若い数学研究者の育成と交流を支援する活動を本格化させます。
1980年からは「数理の翼夏季セミナー」を主催し、数理科学に強い情熱と資質を持つ若者に、学年や地域を超えた交流の場を提供し続けました。
算数オリンピックの創設——小学生に数学の楽しさを
広中氏の教育への関わりの中でも、特に広く知られているのが「算数オリンピック」の創設です。
1992年、バルセロナ五輪の年に第1回大会が開催されました。
「算数」を万国共通の言語と位置づけ、世界の子どもたちに算数をスポーツやゲームのように楽しんでもらうことを目的とした大会です。
現在は算数オリンピック・ジュニア算数オリンピック・広中杯・ジュニア広中杯・キッズBEEの5種目が設けられ、国内外の多くの小学生・中学生が毎年挑んでいます。
2023年には国内参加者数が6,000名を突破するほどの大会へと成長しました。
大会には広中氏の名を冠した種目「広中杯」もあり、その思想と名は今も若い世代に受け継がれています。
広中氏はまた、芸術系大学や福岡の私立小学校にも出向いて授業を行った時期があり、「数学の面白さを伝えたい」という姿勢は生涯を通じて変わりませんでした。
東京書籍の算数・数学教科書の監修も手がけ、日本の算数・数学教育に多大な貢献を残しています。
1996年から2002年まで山口大学長を務めた後も、2008年には韓国・ソウル大学の碩座教授として招聘されるなど、晩年まで教育と研究の最前線に立ち続けました。
数学の無限の面白さを伝え続けた碩学との別れ
広中平祐氏の人生は、貧困と挫折の中から出発し、世界最高峰の数学的業績へと至る道のりでした。
数学者のイメージとして語られがちな「幼少期からの天才」とは異なり、広中氏は自らを「努力と根気の人」と評していたといいます。
フィールズ賞の年齢制限ギリギリの39歳での受賞も、その言葉を裏付けています。
優れた才能に出会えば「ぼく、アホやし」と笑いに変え、純粋に学問を愛し続けた姿は、数学の枠を超えた生き方の哲学を示しています。
人の笑顔と数学を掛け合わせ、その無限の面白さを伝え続けた碩学が、94歳でこの世を去りました。
しかし広中氏が蒔いた種は、算数オリンピックや数理の翼セミナー、そして世界各地で活躍する教え子たちの中に、確かに根を張り続けています。

