
ギリシャ語に「パトス」という言葉がある。
欲望や嫉妬、苦悩といった情念を意味するこの言葉は、古代から人間の本質的な側面を言い表してきた。
古代ギリシャのストア派の哲人ゼノンは、パトスによる心の乱れを理性で制御することの重要性を説いたとされる。
しかし2026年2月28日、世界はその「理性による制御」とは正反対の出来事を目撃することになった。
米国とイスラエルが、イランの首都テヘランをはじめとする広範囲にわたって大規模な空爆を開始した。
作戦名は「エピック・フューリー(Epic Fury)」——日本語に訳せば「壮絶な怒り」である。
この攻撃によって、イランの最高指導者ハメネイ師(86歳)が死亡した。
まさに理性ではなく「パトス」、すなわち怒りと情念が世界秩序を揺るがした瞬間であった。
本稿では、この前例なき軍事行動の背景と経緯、そして中東と国際社会への影響を多角的に考察する。
目次
「エピック・フューリー」作戦の全貌——何が起きたのか
2026年2月28日、テヘランに炎が上がった
2026年2月28日、イラン標準時の午前9時45分過ぎ、テヘランをはじめイスファハン、コム、カラジ、ケルマンシャーという5都市で同時に爆発が起きた。
イスラエル空軍は約200機を投入し、500以上の軍事目標を一気に攻撃した。
イスラエル側の作戦名は「ローリング・ライオン(Roaring Lion)」、米国側の作戦名が「エピック・フューリー(Operation Epic Fury)」である。
ブルームバーグは「トランプ大統領はイランを攻撃する正当性や目的について、議会を含むいかなる相手にも一度も説明してこなかった。だが、大規模軍事作戦が始動した今、その狙いは明確になった」と報じた。
攻撃はテヘランや北西部タブリーズ、中部イスファハン、南部シラーズなど広範囲にわたり、イラン31州のうち24州が被害を受け、全土で200人以上が死亡したとも伝えられた。
ハメネイ師の死亡が確認される
ハメネイ師はその時、側近との会議中だったとされる。
イスラエル当局が遺体を確認したと報告し、翌3月1日未明、イラン国営メディアがハメネイ師の死亡を公式に認め、40日間の服喪が宣言された。
トランプ大統領はSNSに「歴史上もっとも邪悪な人物のひとり、ハメネイは死んだ」と書き込み、「われわれの高度に洗練された追跡システムを逃れることができなかった」と誇らしげに説明した。
イランはペゼシュキアン大統領や革命防衛隊が報復攻撃を宣言し、在カタール米軍基地、UAE、バーレーン、サウジアラビアの米軍拠点などを標的としたミサイル・ドローン攻撃が相次いだ。
対イラン作戦で米兵3人が死亡、5人が重傷を負うという事態にまで至った。
2025年「12日間戦争」からの連続した流れ
今回の攻撃は突然のことではない。
2025年6月13日、イスラエルが「ライジング・ライオン作戦」でイランへの奇襲攻撃を開始し、「12日間戦争」と呼ばれる激しい交戦の末、イスラエルとイランの停戦合意が成立した。
停戦後も米軍は2025年6月22日に「ミッドナイト・ハンマー作戦」によりイランの核関連施設(フォルドゥ、ナタンズ、イスファハン)をB-2爆撃機と地中貫通爆弾GBU-57で攻撃した。
しかしイランの核プログラムを完全に無力化するには至らず、国防情報局の初期評価では「核開発に対する影響は数か月の遅延にとどまる可能性がある」とも報じられていた。
停戦はわずか約8か月で破られ、2026年2月28日の今回の攻撃へとつながった。
今回は核施設だけでなく、体制そのものの転換を明確に狙った攻撃であった。
「パトスの外交」——理性を欠いた意思決定の構造
ベネズエラに続く「斬首作戦」という前例
トランプ大統領が外国指導者の排除に踏み切ったのは、今回が初めてではない。
2026年1月3日、米軍はベネズエラに対して大規模な軍事作戦を実施し、マドゥロ大統領を拘束・国外移送した。
トランプ大統領は自身のSNS「Truth Social」に「アメリカ合衆国はベネズエラおよび同国指導者マドゥロ大統領に対し大規模な攻撃を成功裏に実施した」と深夜に書き込んだ。
ベネズエラ攻撃からわずか約2か月足らずで、今度はイランの最高指導者まで標的にした。
ブルームバーグは「トランプ氏はわずか2か月足らずで、中国の最も緊密な同盟国2か国を排除し、その過程で中国の原油供給を脅かしている」と報じ、この一連の動きの急速さと強権性を浮き彫りにした。
国際社会からは、議会の承認なき軍事行動は憲法違反であるとの批判も上がった。
米民主党のモールトン下院議員は「議会はこの戦争を承認していない。これは、将来の計画もないまま米国人の命を危険にさらす、無謀で選択的な体制転換だ」と厳しく非難した。
核開発への対応か、それとも別の目的か
トランプ大統領はSNSの動画で「イランは核の野心を放棄するあらゆる機会を拒絶した。容認できない」とし、「イラン政権からの差し迫った脅威を排除し、米国民を守る」と攻撃を正当化した。
確かにイランの核開発は深刻な問題であった。
2025年5月時点でIAEAはイランが純度60%の高濃縮ウランを409kg保有していると報告しており、これは民生用に必要な量を大きく上回り軍用レベルに相当した。
米軍中央軍のクリラ司令官も2025年6月に「核兵器開発まであと数週間だ」と警告していた。
しかしブルームバーグは「核協議が大きく進展しているとアラブ仲介国が説明し、大半の米国民が新たな軍事行動に反対していると世論調査が示す中で、攻撃実行の決断は下された」と報じた。
米国とイランは2026年2月に入ってオマーンの仲介で高官協議を3回開いており、イラン側は制裁解除と引き換えに高濃縮ウランの希釈などで歩み寄りを見せていた。
外交交渉が進んでいた最中の攻撃であっただけに、核抑止という名目の裏に別の意図があったのではないかという疑念は消えない。
中間選挙と「実績作り」の思惑
米国では2026年秋に中間選挙を控えている。
ブルームバーグは「米国とイスラエルによるイラン攻撃は、トランプ米大統領にとって重大な転機となった。かつては絶対に始めないと誓った戦争を、自ら引き起こすことで、2期目の政策アジェンダを強化できると読んで賭けに出た形だ」と分析した。
トランプ大統領のコアな支持層であるキリスト教福音派は、イスラエルの安全保障に強固な支持姿勢を示しており、イラン攻撃を後押しする声も根強かった。
「イランの核施設を除去するという功績は、トランプ氏にとっては魅力的だ」——そのような指摘は複数の専門家からも出ている。
核開発の脅威から自国民を守るという大義名分と、選挙を意識した実績作りの思惑。
その両方が複雑に絡み合っている可能性がある。
ひとりの為政者のパトスが、中東という火薬庫に火をつけることが許されるのだろうか。
さらに、イランは人口約9000万人を擁する大国であり、領土も広大だ。
アフガニスタンのような泥沼化を避けられるのか、出口戦略は何か——これらの問いに誰も明確な答えを持っていないまま、戦火は拡大しつつある。
民間人の犠牲と国際社会の分断
女子小学校への爆撃——子どもたちの命
テレビで、イラン南部での空爆映像を見た人は少なくないだろう。
中東メディアおよび複数の報道によると、イラン南部ホルムズガン州ミーナーブ市の女子小学校でも空爆があり、108人の児童が死亡したとイラン政府が発表した。
この映像については、ニューヨーク・タイムズとロイターが映像の真正性を確認している。
子どもが大量に死んだこと自体は事実であり、フェイクニュースではなかった。
フェイクニュースであったなら、どれだけよかったか——そう思わずにはいられない映像であった。
2025年6月のイスラエルによる最初の奇襲攻撃(ライジング・ライオン作戦)でも、子ども20人を含む多くの市民が犠牲となったことが報じられており、民間人被害の深刻さは繰り返されている。
ホルムズ海峡封鎖と日本を含む世界経済への打撃
今回の攻撃を受けてイランはホルムズ海峡の封鎖を検討し、イラン国会が封鎖を求める方針を承認するという事態にまで発展した。
攻撃後、ホルムズ海峡の通航量は7割減少したと米紙が報じた。
日本はホルムズ海峡の混乱にもっとも脆弱な先進国のひとつとされており、原油輸入の大部分を中東に依存している。
封鎖が長引けば、日本のガソリン価格や電気料金への直接的な打撃は避けられない。
「中東で戦争が起きている」という遠い世界の出来事ではなく、私たちの月末の光熱費に跳ね返ってくる現実の問題なのである。
OPECプラスは4月に20万バレルの増産を決定したが、ホルムズ海峡の混乱が続けばその効果も限定的となりかねない。
国際社会の分断——中ロ対米の構図が鮮明に
イランへの攻撃に対し、中国とロシアは強く非難した。
中露の外相は電話会談で結束を確認し、ロシアのプーチン大統領はハメネイ師の死亡に哀悼の意を表した。
北朝鮮も「覇権行為」として米国のイラン攻撃を非難し、警戒感をあらわにした。
ドイツ首相はイラン攻撃に一定の「理解」を示したものの、国際法違反の判断は棚上げにするにとどまった。
CNNは、今回の軍事行動が中国にとっても深刻な打撃となると分析している。
ベネズエラとイランはともに中国の重要な原油供給国であり、両国の喪失は中国の原油輸入量の約15%に影響するとされる。
米国の「パトスの外交」は、敵だけでなく同盟国をも含む国際秩序全体を揺さぶり、世界の分断を一層深めている。
イランの今後——体制はどこへ向かうか
ハメネイ師の後継者問題は、イランの政治体制の根幹に関わる問題だ。
次期最高指導者の候補としては、ハメネイ師の息子モジタバ・ハメネイ、側近のサディク・ラリジャニらの名前が挙がっている。
一方、亡命中のレザ・パフラヴィ氏を中心とする反体制派グループは「体制崩壊後180日間の統治計画」を発表したが、反体制派内でも路線対立が表面化している。
トランプ大統領は3月1日、アトランティック誌のインタビューで、イランの暫定指導部と協議することに合意したと明かした。
軍事行動と外交交渉を並行して進めるというトランプ流のアプローチが、今後どのような結果をもたらすのかは、いまだ不透明なままである。
理性は取り戻せるか
ゼノンが語ったように、理性はパトスを制御できるものであるはずだった。
しかし「エピック・フューリー(壮絶な怒り)」という作戦名そのものが象徴するように、今回の軍事行動は理性よりも感情と利害計算が優先された決断として歴史に刻まれるだろう。
核開発という現実の脅威があったことは否定できない。
だが外交交渉が進んでいた最中の攻撃であり、民間人——特に子どもたちの命が大量に失われたことは、いかなる大義名分でも正当化できるものではない。
イランは人口約9000万人を擁する大国であり、領土も広大だ。
アフガニスタンのような泥沼化を避けられるのか、出口戦略は何か——これらの問いに誰も明確な答えを持っていないまま、戦火は拡大しつつある。
トランプ大統領はイランへの軍事作戦が「4週間程度」で終わると見通しを示したが、米兵がすでに死傷しており、イランの報復は湾岸諸国の米軍基地にまで及んでいる。
今後の焦点は、イラン国内の指導体制がどのように再編されるか、そしてイスラエルとイランの新たな停戦交渉が実現するかどうかにある。
「パトス」に揺れる世界の中で、理性の声が届くことを、国際社会は切に願っている。

