
シンガーソングライターのあいみょんさんは平成生まれながら、昭和のダジャレや死語を巧みに歌詞に織り込んだ楽曲で注目を集めています。
その一方で、同じSNSというプラットフォームでは、「おつかれサバ」「お待たセロリ」といった食べ物スタンプが若者を中心に広がるなど、ダジャレが新たな形でよみがえっています。
ところが、笑いと親しみをもたらすはずのSNSというツールは、誹謗中傷の温床ともなっており、春の選抜高校野球大会では主催者がSNS投稿の監視に乗り出すという事態にまで発展しました。
古き言葉への愛着と現代の闇、その両方が交差するいまだからこそ、言葉の力とSNSのあり方を改めて考えてみたいと思います。
目次
あいみょんと死語の世界――「当たり前だのクラッ歌」の衝撃
あいみょんさんは1995年(平成7年)生まれのシンガーソングライターです。
「マリーゴールド」や「裸の心」などのヒット曲で幅広い世代に知られる彼女ですが、実はデビュー以前のインディーズ時代から、非常にユニークな楽曲を発表していました。
その代表格が、2015年5月20日にリリースされたデビューミニアルバム『tamago』の最後を飾る「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」です。
タイトルだけでも十分に驚かされますが、歌詞の中身はさらにインパクト絶大で、「そんなバナナ」「モチのロン」「冗談はよしこちゃん」「チョベリバ」「許してちょんまげ」「当たり前だのクラッカー」「アッと驚く為五郎」といった、昭和・バブル期に流行した死語がこれでもかと詰め込まれています。
死語の宝庫、その歌詞の世界観
歌詞に登場する言葉のひとつひとつを振り返ると、バブル全盛期の日本の空気感が色濃く漂ってきます。
「ザギン(銀座)」「ギロッポン(六本木)」といった業界用語の逆さ言葉、「チョベリバ(超ベリーバッド)」「アウトオブ眼中」といったギャル語、さらには「ジュリアナ東京」「おにゃんこ」「聖子ちゃん」といった1980〜90年代のポップカルチャーへの言及まで、昭和・バブルを生きた世代には懐かしく、平成・令和生まれの若者には新鮮に映る言葉の数々が散りばめられています。
あいみょんさんは平成生まれでありながら、当時の言葉や文化をみずから研究し、こうした楽曲を生み出しました。
そこにあるのは単なるノスタルジーではなく、「古きよき言葉たちを忘れてしまうのだろう 忘れないで…」という歌詞に集約されているように、時代の波に消えていく言葉への真剣なまなざしと愛情です。
MVにも込められた昭和へのリスペクト
ミュージックビデオでは、あいみょんさんが上下デニムの衣装でアコースティックギターを抱えて弾き語るスタイルを披露しています。
その佇まいは昭和のフォークシンガーを彷彿とさせ、歌詞の世界観とぴったり重なります。
ギターを一本手に、ただひたすら歌うというシンプルな映像の中に、あいみょんさんの言葉に対する誠実さとユーモアが溢れています。
「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」はデビューミニアルバムの収録曲であり、リリース当初こそ世間的な知名度は限られていましたが、あいみょんさんが「マリーゴールド」などでメジャーブレイクしてから改めて注目を集め、現在もその独自の世界観を愛するファンが多い楽曲として知られています。
ダジャレの逆襲――LINEスタンプで若者に広がる「笑える言葉」
「おつかれサバ」「お待たセロリ」「なんとかなるさ(鰺・アジ)」――。
近年、野菜や魚のイラストにダジャレを添えたLINEスタンプが、特に若者たちの間でじわじわと人気を集めています。
「おじさん構文」や「昭和ネタ」が一部の若者にとってあえて面白いコンテンツとして機能しているように、かつては「寒い」と煙たがられていたダジャレが、令和の時代に新たな息吹を吹き込まれているようです。
「寒い」から「かわいい」へ――ダジャレの変容
もともとダジャレは、ことばの音の近さを利用したユーモアの一形態であり、日本語が持つ豊かな音韻構造を生かした言葉遊びです。
江戸時代の川柳や落語の中にも、ダジャレの要素を含んだ表現は数多く見られ、日本人と言葉遊びの歴史は非常に深いものがあります。
高度成長期やバブル期には、テレビのお笑い番組や広告コピーの中でダジャレが花開き、多くの国民に親しまれました。
しかしその後、洗練されたトークやシュールなギャグが流行する中で、ダジャレは「古くさい」「おじさんっぽい」というイメージを持たれるようになっていきました。
ところが、SNSとスタンプ文化の普及とともに、ダジャレは再び脚光を浴びています。
テキストだけでなくイラストとセットになった「食べ物ダジャレスタンプ」は、言葉の意味よりも音とビジュアルの組み合わせによるユーモアを楽しむもので、「かわいい」「センスがある」と感じる若者が増えています。
あいみょんの楽曲が示したもの
あいみょんさんがダジャレや死語を歌詞に取り込んだことで、こうした言葉たちは「古臭い」ものから「レアでおもしろいもの」へと変わりました。
平成・令和生まれの若者にとって、「チョベリバ」や「モチのロン」は知らない言葉だからこそ新鮮で、歌詞の解説記事を読んで「こんな言葉があったの!」と楽しむ入口になっています。
言葉は時代と共に生まれ、変化し、消えていくものですが、あいみょんさんの楽曲はその消えかけた言葉たちを音楽という形でアーカイブし、次の世代へと手渡す役割を果たしています。
「この星は いつもナウいを求めて 古きよき言葉たちを忘れてしまうのだろう 忘れないで…」という歌詞は、ポップな死語ソングの外皮をまといながら、言葉の記憶を継ぐことへの切実な問いかけを含んでいます。
これは、ダジャレスタンプで笑顔を交わし合いながら、一方では誰かを傷つける言葉が飛び交うSNS時代への、静かな警鐘とも読み取れます。
SNSと誹謗中傷――球児を守るための「監視社会」は是か非か
ダジャレや笑いを届けるツールとしての顔を持つ一方で、SNSはいまなお深刻な問題の温床となっています。
2025年3月、第98回選抜高校野球大会の主催者である毎日新聞社と日本高校野球連盟(日本高野連)は、大会開幕日(3月19日)から決勝予定日(3月31日)まで、X(旧ツイッター)とヤフーニュースのコメント欄を専用のツールや目視で監視すると発表しました。
調査は民間の専門業者に委託し、選手・指導者・審判委員らへの誹謗中傷や差別的な言動が確認された場合は、削除要請や法的措置も辞さない構えです。
なぜ今、監視が必要なのか
今回の決定の背景には、2024年夏の全国選手権大会(夏の甲子園)での苦い経験があります。
出場校で暴力事案が発覚した際、その情報がSNSで急速に拡散し、それに乗じた部員や学校関係者への攻撃的なメッセージが殺到しました。
結果として、その学校は大会途中での辞退を余儀なくされるという事態に至りました。
日本高野連はこの出来事を深刻に受け止め、2025年1月には「法的措置を含めて毅然とした対応をとる」という声明を発表していました。
今大会での監視体制は、その声明を実行に移したものと言えます。
日本高野連の井本亘事務局長は「SNSが普及し、高校野球を取り巻く環境が変わる中で主催者として何かできないか模索してきた。差別的な言動などが確認されれば、毅然とした対応で臨みたい」とコメントしており、主催者としての強い意志が感じられます。
スポーツ界全体に広がる誹謗中傷対策の波
こうした動きは高校野球に限ったことではありません。
2025年2月に開催されたミラノ・コルティナ冬季オリンピックでは、日本オリンピック委員会(JOC)がミラノと日本にそれぞれ対応チームを設置し、24時間態勢でSNS投稿を監視するという体制をとりました。
2月12日時点で各プラットフォームに1,055件の削除要請を行い、198件が実際に削除されました。
日本選手団の伊東秀仁団長は「毎日、想定以上の件数で対応に追われている。アスリートの尊厳を傷つけることは、恐怖を与え、発揮できるはずの力を奪ってしまう」と訴え、改めて誹謗中傷の自制を呼びかけました。
スポーツ選手は公の場で活動する存在であるがゆえに「批判されて当然」という誤った認識が一部に根強くありますが、プレー内容への意見と個人への中傷はまったく別のものです。
SNS監視という措置は、「表現の自由」との兼ね合いでデリケートな問題をはらんでいますが、他者を傷つける言葉を無制限に垂れ流すことが許容される社会であってはならないという点では、多くの人が合意できるはずです。
言葉を大切に――「忘れないで」というメッセージを受け取る
死語からダジャレ、そしてSNSの誹謗中傷まで――今回たどってきたテーマは、根っこでひとつに繋がっています。
それは「言葉の重さ」という問題です。
あいみょんさんが昭和の死語を歌に込めたのは、言葉には命があり、使われなくなることで死んでいくという事実への気づきからでした。
「お待たセロリ」「おつかれサバ」といった食べ物ダジャレが若者のスマートフォンを行き交うのは、笑いや親しみを共有したいという人間の根本的な欲求の表れです。
一方、誰かを傷つけ、追い詰め、競技の舞台から退場させるほどの言葉が、匿名の陰に潜みながら発信され続けているのも、同じSNSという場における現実です。
あいみょんさんが歌う「古きよき言葉たちを忘れてしまうのだろう 忘れないで…」というフレーズは、失われていく言葉への惜別であると同時に、言葉を大切に扱ってほしいという願いでもあると感じます。
笑いのためにも、つながりのためにも、そして誰かの心を守るためにも、私たちひとりひとりが言葉の力を意識し、使い方を問い直すことが、今もっとも必要とされていることではないでしょうか。
「この星はいつもナウいを求めて」いる時代だからこそ、古い言葉も新しい言葉も、大切に紡いでいきたいものです。

