61式…戦後初の国産戦車のすごさ

戦後初の「国産戦車」がスゴかった! 「61式」とはどんな戦車だったのか?

戦後の1955(昭和30)年から1973(昭和48)年頃は高度経済成長期といわれます。

クルマ業界でも国産車は飛躍期でプリンス「スカイライン2000GT 」、ホンダ「S600」、トヨタ「S800」、日産「シルビア」など今でも名を聞く名車が次々と生まれました。

日本のモータリゼーションはこの頃から始まったのです。

昭和の高度成長期生まれ。現在も海外派遣任務遂行中の「61式戦車」とは

戦前、戦中に目を転じてみると海の戦艦「大和」、空の「ゼロ戦」は有名でしたが、モータリゼーションの遅れを象徴するように日本陸軍の戦車は全く目立ちません。

ただ弱かったイメージですが実態は異なります。

日本も戦前は主要戦車生産国でした。

戦時中の戦車生産台数は約5000両でこれはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連に次ぐ生産量でした。

第2次大戦中の戦車は炎上しやすいガソリンエンジンが主流でしたが、世界に先駆けてディーゼルエンジンを戦車に採用したのは日本です。

これが戦後バス、トラックのディーゼルエンジン技術に継承されていきます。

しかし戦争に負けては元も子もありません。

1945(昭和20)年に日本軍は解体され戦車など兵器の製造は禁止されます。

日本が戦車を持ち始めたのは1952(昭和27)年のことで当時は陸上自衛隊ではなく保安隊と呼ばれており、かつての日本戦車の宿敵だったアメリカ戦車を供与されました。

アメリカの戦車は大柄で日本人には扱いづらいもので、足が短くてフットペタルを踏み込めない、座席を一杯上げてもハッチから頭を出せないなど。

足が届くようにブーツに木片を括り付けて厚底にしたり、ハッチから頭を出せるように座席に何枚も座布団を重ねたりと笑い話のようなエピソードが多くあります。

そうなると、やっぱり身の丈にあった戦車が欲しくなります。

ほんの十年前までは戦車を国産していたという自負もあり、アメリカの中古戦車に甘んじているわけにはいかないという意識が出てきます。

国産戦車の開発がスタート

国産戦車の開発が始まったのが1954(昭和29)年で、陸上自衛隊発足と同時期にあたります。

日本が独り立ちして高度経済成長期に入ろうとした時期で、技術者が残っており戦前から蓄積してきた戦車の技術的ノウハウを途切れさせないギリギリのタイミングでもありました。

その一方で敗戦後10年の空白期間の間に世界の戦車技術はどんどん進歩していましたのでコンセプトを決めるのが大変だったといいます。

道路網は貧弱だったので軽く、コンパクトに造ることが命題とされます。

最初の要求仕様では重量25t、主砲90mm砲、強力なエンジンと低接地圧、装甲は以上を実現する範囲で妥協し、大きさは狭軌だった国鉄の貨車に積載できることです。

同世代ライバルだったソ連のT-55は36t、アメリカのM47パットンは46tでしたのでかなり軽量級でした。

主砲は90mmにこだわりました。背景には戦時中アメリカ戦車に遭遇した日本戦車兵の「装甲はブリキでもよい。

敵戦車を破壊できる主砲を送ってくれ」との声があったのです。

機動力や防御力というのは訓練や工夫で何とかなる余地がありますが、火力の不足だけはどうにもならないという発想でした。

しかし90mmを装備して重量を25tに抑えようとすると装甲はペラペラになってしまい、自衛隊側から「戦車乗りの良心にかけて、本案の戦車を装備化することは同意し難い」との意見を受け装甲を増して35tまで増加します。

退役後も重要な任務につく61式

戦後初の国産戦車が制式採用されたのは1961(昭和36)年4月で採用年から61式戦車と命名されます。

アメリカの中古戦車を動かすには笑い話のような苦労がありましたが、61式にもやっぱり苦労がありました。

61式に乗っていたOBの誰もが熱く語るのが操縦の難しさです。

今のクルマのギアチェンジはオートマチックが普通ですが、61式では昔の大型車と同じくエンジンとミッションの回転数を合わせ、ダブルクラッチ操作をして重い変速レバーを操作しなければなりません。

タイミングが合わなければギヤが鳴ってレバーははじかれます。その衝撃で捻挫したり手袋を着用していても手の皮が捲れたり腕時計が壊れたり、なかには力任せにギヤを入れようとして変速レバーを折ってしまう猛者もいたとか、話題は尽きません。

主砲を撃つのも敵との距離を測る測距機はあるものの、素早く射撃するには目標との距離を目測し、直接光学照準器を覗き込んで、撃って弾着を見て修正するという職人技のような熟練が必要でした。

戦車に限らず普通のクルマでも手足のように動かすには技が必要という「めんどくさい時代」でもありました。

でもこの経験が国産戦車の基礎を築いたのです。

61式は2000(平成12)年に全車退役しましたが任務はここで終わりませんでした。

2019(平成31)年にヨルダン王立戦車博物館に展示品として海外派遣(無償貸与)されることになったのです。

中東では日本のクルマは有名ですが、戦車も国産していることが意外と知られていません。

現在も列国戦車と並んで日本戦車の技術歴史を語る国際広報任務に就いています。

ネットの声

「正面装甲の4/5がネジ止めのパネルだったり、大戦時の中戦車と比べても薄い装甲板、世界で最も操縦が難しいなど問題も多々あった戦車だが、何と言っても現役の間に一度も実戦を経験しなかったというのは天晴であったし、映画ではすぐにやられるのが分かっていながら強大な怪獣に立ち向かった健気な戦車でもあった。」

「当時は道路網が未発達で輸送は鉄道がメインだったので鉄道で輸送できるサイズになったようです。また当時は国鉄のストライキが多く自衛隊の貨物輸送を拒否するということも考えられたため短期間ですが自前で線路を敷設したり蒸気機関車を運行する部隊が存在していました。」

「日本軍の技術が低いとか言われているが列強が戦後ようやく作れたディーゼルエンジン戦車を最初に採用した国で日本戦車の父である原乙未生もそのことは戦後も述べていられた。
日本は大東亜戦争で決して連合国に技術力では負けてない、欧州戦線でやられ役でしかないM4シャーマンよりも優秀な戦車は持っていた。
技術力ではなく数の暴力で負けた口惜しさは当時も今も日本人なら誰でも感じることであろう。」

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