96歳で崩御、エリザベス女王の死因「老衰」の意味
この秋、英王室のエリザベス女王が亡くなりました。
その気高さ、成し遂げられた数々の人類への貢献は、多くの人が心から敬意を表するものだったと思い返します。
1万キロに近い距離を隔て、日本人の多くも喪失の悲しみに打ちひしがれました。
9月30日、スコットランド当局は、エリザベス女王の死因が「老衰」であると発表しました。エリザベス女王の命を奪った「老衰」とは一体何なのでしょうか。
目次
人はなかなか死ねなくなった
人類の平均寿命が延びています。
そのことにはみんな気づいていますよね。
いえ、意識しなくても、誰しもがついつい気づいてしまうほどに著明に延びています。
人間はなかなか死ねなくなりました。
現在の日本の平均寿命は男性が約82歳、女性は約88歳です。
昔の話をすると、戦後(1945年)すぐの頃には日本人の平均寿命は50歳を少し超えたくらいでした。
当時は、戦争の影響で下がっていた面が多少はあったにせよ、今と大きな違いがあります。
かつての60代、70代の人は、現代の同世代とは比べられないくらいに「老人」だったのです。
ところで、老衰、って何でしょうか。
医学的に「老衰」というのは案外に難しい概念です。
「老化」ならば比較的わかりやすい。
人間を含む生物は、代替わりを繰り返して成立するもの。
新しい世代が生まれる前提として、老兵は去らなくてはならない。
生物の定めとして、メンバーの新陳代謝を図るわけです。
そして、その新陳代謝のために自然が用意した答えこそが「老化」だったのです。
このことは古来の共通理解であったと思われます。
つまり、去って行くために「老化」して心身機能が細胞レベルから後退し、やがて生命を閉じる方向に向かうということです。
翻って「老衰」です。
老衰は老化によってだんだんと衰えていく状態を指す言葉です。
しかし、「老衰」と聞くと、それ自体が病気の名前のように感じられると思います。
そのことには理由があって、「老衰」は長い間、高齢者が起こす不調をざっくりと表す魔法の言葉のように使われてきました。
医学が老化にともなう人間の現象をはっきりとわかっていなくて、曖昧な用語を使っていたという面があるのです。
高齢になるに伴い、人間の機能は低下してきます。いろいろな低下が起こるのは、完全に自然のなせる業、節理です。
冒頭に書いたように、我々は誰しも、次の世代にバトンタッチして自らは消えていく使命を帯びて生まれてきています。
世代継承のために必要な寿命は最短なら20歳、子育てまで含めても50年あればお釣りがきます。
そのため、我々が持つ身体はもともと50年仕様なのです(身体の部品が50年仕様である話は、『人は死ねない』〈晶文社〉でも詳しく書いています)。
さて、その50年仕様を大きく超えて高齢を極めた人間が亡くなる頃、身体のさまざまな機能がちょっとずつ、生命の維持に十分に耐えうる状態ではなくなってきます。
心臓も悪く、肺も悪く、腎臓の機能も足りない……一個一個の臓器の異常が特に顕著なわけではなくても、全体としての「チーム力」が足りなくなるのです。
そして、チーム力のせいで生命の灯がついえる状況を、我々は老衰と呼ぶのです。
各臓器の総力が足りなくなる
なお、チーム力、と言いましたが、チーム力が足りなくなるときの最後の決定的な部分は、腎臓であったり肺であったり、また、心臓であったりします。野球でいうならば(野球に喩えるのが適切かどうかもわかりませんが)、4番バッターが打てなくなったから負けた、ピッチャーの層が薄いのが原因でリリーフの切り札の心身がボロボロになって打ち込まれた……というようなことでしょうか。
ともかく、ひとりの人間全体の生命活動を支えるには各臓器の総力が足りなくなるのが老衰なのです。
そういう状況であることから、例えば高血圧や糖尿病の持病を抱えた、あるいはがんから回復したあとの「一病息災」「多病息災」の状況であっても、それらの病気が命を奪うことなく、「老衰」によって命を閉じることは十分にあり得ます。
高齢でも目立った病気もなく日々の活動ができ、元気なままで、いわば、ピンピンピンピンピンピンコロリ(PPPPPPK)ということも高望みではありません。
国立国語研究所が運営するコーパスで調べてみます。
コーパスとは、ごく簡単にいうと、検索しやすいように構造化された用例データベースです。
コーパスで調べると、「老衰」が現代の意味で使われ始めたのは、少なくとも1878年生まれの小説家、有島武郎の『小さき者へ』までは遡れます。
それより遙か以前、8世紀に著わされた書物にも「老衰」は使われています。
しかし、その当時から18世紀までの間、同語の使われ方は、「齢を取って衰弱」という程度にとどまり、現代のような、病気に言及する意味はなさそうです。
ちょっと周辺の事情をお話ししたいと思います。
江戸時代から明治にかけて、日本に大量の西洋医学が入ってきました。
蘭学医であった杉田玄白の『解体新書』などは、その文脈でよく知られる代表的な存在です。
当時、日本にはまだ存在しないモノや考え方が入ってきました。
その結果、日本語の語彙として必要ないろいろな言葉が「転用」ないし「発明」されることになりました。
「解剖」や「細胞」「侵襲」……といった医学用語が昔の語彙から蘇らされたり、たくさん作られたりしました。
そのときに作られた言葉の見事さ、漢字の使われ方の完膚なきまでの技術を見ると、時代の知識層が漢文に大きな素養を持っていたことが見てとれます。
現代人として恥ずかしくもなります。21世紀の日本語に定着しているさまざまな用語がこの時期に作られているのです。
『老衰』も死亡診断書に死因として記載できる
そして、「老衰」もこの時期に使われ始めた「リバイバル語」であったと思われます。
対応する西洋の言葉は「senility」(あえて普通に訳すなら、老化)、あるいは単純に「aging」あたりであったと想像されるものです。
老いてだんだんと衰弱していく、まさにその状態をよく反映しています。
死亡診断書の話をしましょう。
死亡診断書は、医師が人の臨終を看取ったときに書く書類です。
この書類がないと、火葬することも、お葬式を出すこともできません。
そして、医師は、死亡診断書を書くにあたり、死の原因をあれこれと医学的に判断し、1つの病名を書く決まりになっています。
仮にもし、その判断の時点で、死亡原因に不審な点があれば、「司法解剖」というものが行われるようになります。
このあたりのシーンはテレビドラマなどでご覧になった方も多いのではないでしょうか。
さて、上段の話を裏付けるかのように、厚生労働省は、死亡診断書において、「老衰」という死因の記載を正式に認めています。
<死因としての「老衰」は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用います。ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は、医学的因果関係に従って記入することになります。>
下図はその公式文書ですが、こういう文書にありがちな、素人には少しとっつきにくいものであると思います。
要は「ほかに死因として書けるものがなければ老衰を使っていいよ」ということです。
さて、ひと時代を美しくしなやかに導いたエリザベス女王が亡くなったことは、英国民ならず世界の人々を悲しみの淵に追いやります。
エリザベス女王が君臨した美しい20世紀の終焉が、時を十分に経た今、そして、老衰というかたちであったことに私は深い感慨を禁じ得ません。
医学がいかに発展しようが、人の自然な先行きに老衰があるということは変えようがないものであると改めて認識します。
老衰とはまさにそういう存在だと思えるのです。