寧々と茶々の関係は?仲は良かったの??

正室「寧々」と側室「茶々」の仲は悪かった?豊臣秀吉の正室と側室の関係を考察

寧々と戦国武将たち

豊臣秀吉の正室である寧々と側室の茶々(淀君)の2人について見ていきましょう。

正室なのに子宝に恵まれなかった寧々と、側室にして秀吉の実子を2人も授かった茶々は、その関係も険悪だったと言われていますが、実際はどうだったのでしょうか。

まず、寧々は秀吉よりも10歳ほど若く、織田信長と同じ尾張の生まれで、信長に仕えていた秀吉が同じ長屋にいた寧々に一目ぼれしたとされています。

政略結婚が多かった当時としては、これは珍しいケースでした。

秀吉は農民の生まれで足軽出身だったので、寧々の母親は結婚に猛反対します。

しかし、周囲の説得で一緒になりました。

寧々『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵・Wikipediaより)

2人の夫婦仲はよかったといわれていますが、子供はできませんでした。

そのため、当時住込みで仕官していた加藤清正と福島正則を、実の子のように大切に育てています。

また、徳川家康の息子の秀忠は、人質として秀吉に出されていた頃、寧々が世話をしていました。

このため秀忠は、徳川家に戻ってからもたびたび寧々の元を訪れています。

彼女は、秀吉が関白になる頃には北政所として朝廷との交渉も行っています。

茶々の数奇な運命

次に茶々(淀君)です。

彼女の母親はお市の方(浅井長政と織田信長の妹)で、父親と祖父は姉川の戦いで自害しており、兄も切腹に追い込まれるという悲惨な境遇でした。

茶々『伝淀殿画像』(奈良県立美術館所蔵・Wikipediaより)

信長の死後、母親であるお市の方は柴田勝家と再婚しますが、勝家は秀吉と敵対したため、最終的にお市の方ともども自害に追い込まれます。

つまり、茶々が側室となった秀吉は、本来なら親のかたきでした。

しかし、当時はこうしたことは珍しくありませんでした。

やがて、秀吉と茶々の間に鶴松が生まれます。鶴松は、秀吉の唯一の実子でした。

それまで秀吉は子宝に全く恵まれなかったため、茶々の懐妊が判明すると、お腹の子の父親は別人なのではないかという好奇の目線が注がれました。

そこで、落ち着いた環境で子供を産めるように造られたのが淀城でした。

これがきっかけで、茶々は淀君と呼ばれるようになります。

しかし、鶴松は3歳で病死し、後に秀頼が誕生しています。

こうして見ていくと、正室は寧々なのに後継ぎは側室の茶々が生むという、ややこしい状況だったことが分かります。

2人の関係は?

このようにざっと見ただけでも、寧々と茶々はさぞ険悪な関係だったろうと想像してしまうところです。

秀吉の心境を思うと、男ならゾッとするのではないでしょうか。

淀城跡

しかし、その後いわゆる秀次事件などが起きて豊臣家が滅んでいくまでの経緯を見ていくと、実は豊臣家の体制に綻びが見え始めたのは秀吉の死後、特に寧々と茶々の居城が分離して以降の出来事だったことが分かります。

このことから、本当は寧々と茶々は豊臣家の要であり、2人が同じ城内にいて連携することでしっかりした協力体制が取れていたのではないか、と最近では言われています。

今までは、2人の関係は険悪なものだったとする見方が主流でしたが、むしろ現在の通説はそれを否定しています。

特に寧々は北政所としての役割も果たしていることから、政治家・統治者としての資質もあったことが伺えます。

天下統一を果たした豊臣家の政治体制は、こうした観点からも見ていく必要がありそうです。

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