日本人70万人の朝鮮半島にはかつて世界最大の“日本人街”があった
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釜山の3分の1が日本内地出身者
日本が貧しかった戦前には、多くの者が仕事を求めて北米に移住しました。
ロサンゼルスの「リトル・トーキョー」をはじめ、サンフランスシコやバンクーバーなどに“日本人街”があったのです。
朝鮮半島にもまた多くの日本人が渡っています。
終戦の頃は、半島全域に約70万人が住んでいました。
中でも下関や博多からの船便が発着する半島への玄関口だった釜山は、特に日本人が多く住む町だったのです。
朝鮮総督府統計年報では、1933年に日本内地出身者の人口が5万2031人に達しています。
同年の釜山市域総人口は15万6429人ですから、市民の3人に1人は内地出身者ということになります。
商売や観光の短期旅行者を含めるとその数はさらに増えたでしょう。
「朝鮮人よりも日本人のほうが多かった」
と、確かなデータはありませんが、当時の釜山を訪れた旅行者には、このような印象を語る人も少なくありません。
街中では、誰もが日本語を話し、商店には、日本の生活雑貨があふれていました。
街全体が日本、世界最大の日本人街だったと言えます。
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長崎出島の25倍にもなる日本人居留区
江戸開府後、対朝鮮半島外交を一任され交易の独占権を得て対馬藩は、釜山に倭館を設置して、朝鮮政府との交渉や日本から来る人や荷物の管理を行いました。
1678年になると現在の龍頭山を中心とした一帯に、約10万坪を与えられ草梁倭館が新設されます。
役所や交易所などの施設に加えて、敷地内には多くの居留日本人のすみかが軒を連ね、様々な商店や飲食店もあったそう。
その面積は長崎出島の25倍にもなります。
戦国期の東南アジア各地に存在していた日本人街と比べても格段に規模が大きいのです。
維新後は、明治政府が草梁倭館を接収して日本公館に改変され、その歴史は終焉(しゅうえん)します。
しかし、釜山の日本人人口は増え続け、龍頭山一帯の日本人街は膨張しました。
李氏朝鮮との国交樹立後は、仁川や元山など、他にも朝鮮半島の各地に日本人街は形成されていたのですが、釜山は群を抜いた存在だったそうです。
道路や下水道が整備され、朝鮮人居住区と比べるとインフラは格段に優れていました。
それに加えて、神社や公園など計画的に緑地が配され、日本式の家屋が建ち並びます。
他の朝鮮の町とは明らかに異質な眺めがそこにはありました。
釜山の「広杏里ビーチ」韓国
日本の海より澄んでいてキレイな場所でした?
また、近くにおしゃれなカフェも多くてゆっくりと過ごせました。 pic.twitter.com/1ve0HD9ex0— マッキー@美しい風景を探して100ヶ国旅行 (@travel100world) October 30, 2022
今も釜山には日本人街の名残が随所に
終戦後、日本人は内地に引き上げ、釜山の日本人街も消滅しました。
ですが、現在の釜山を歩いてみると、その名残がまだかなり残っています。
日本人街の中心だった龍頭山付近の道路のレイアウトは、戦前の日本人街の頃と同じです。
また、釜山は朝鮮戦争の戦火を逃れた場所だけに、戦前から残る民家や商店の建物が少なくありません。
高台から家々の屋根を見れば、屋根の形状が明らかに朝鮮式とは違った建築の建物がそこかしこに。
近寄って見てみると、日本から取り寄せたのでしょうか。
鬼瓦もいくつか発見しました。
坂道を脇を固めた石垣にも、刻まれた古い日本語を見つけることができます。
さらに、喫茶店。1970~80年代頃には、日本でもよく見かけた古臭い感じの喫茶店。
釜山にはそれが多いのです。
一部には韓国独特の売春業に転業した店も多いのですが…、外観や店内の内装、テーブルやイスの形状には、かつての日本でよく見かけた喫茶店の懐かしさを感じさせます。
注文を取りにきたウェイトレスが、水とおしぼりを持ってくるあたりも、昔ながらの日本の喫茶店にあるサービススタイル。
韓国の他の都市ではあまり見かけない釜山独特のものです。
これも、かつて町の総人口の3割以上を占めていた日本人が残した置き土産でしょうか。