バブル時代を駆け抜けた飯島愛…その知られざる晩年

AV出演で得た収入は3000万円…“バブルの娘”として時代を駆け抜けた飯島愛の“知られざる晩年”

家出、ホステスとしての生活、AVデビュー、そして芸能界入り……。36歳という若さで惜しくも亡くなった飯島愛の人生は波乱の連続でした。

バブル絶頂期を駆け抜けた彼女の最期とはどのようなものだったのでしょうか。

1987(昭和62)年から1990(平成2)年までの「バブル経済」の時代は、タレント飯島愛(本名・大久保松恵)の14歳から18歳にあたります。

14歳で学校から遠ざかり、16歳から六本木と銀座のホステス、18歳でAV(アダルトビデオ)女優となって、やがてテレビタレントに転じ、28歳で赤裸々な自伝『プラトニック・セックス』(小学館)を刊行、170万部のベストセラーとした飯島愛は、まさに「バブルの娘」だったのです。

歌舞伎町で遊ぶ少女

江東・亀戸の会社経営者の長女飯島愛は、両親のきびしいしつけのもとに育てられました。

親は娘を都心部の名門私立女子中学に進学させたかったのですが、それがかなわないとなったとき、おなじ区立でも、より程度の高い中学に越境入学させました。

母親は「あなたのためだから」といいながら、学習塾から長刀まで多くの習い事をさせたのです。

父親は有島武郎の『一房の葡萄』を朗読させ書き写させるという「道徳教育」を娘にほどこしました。

そんな強圧的な「多忙さ」から逃れたかったのか、「サザエさんちが理想の家庭」とひそかに思う娘は、14歳から不良行為に傾斜したのです。

原宿の路上で大集団で踊る「竹の子族」にまじって知りあった関東近県の女子中学生たちと、新宿・歌舞伎町を遊び場としました。

有料トイレで着替え、脱いだ制服をコインロッカーに入れる。

デパートの女性衣料品売り場の試着室で気に入った服を身に着けて、そのまま店を出る。

ディスコに「中学生割引」で入って閉店まで踊り、シンナーを吸う。

パンダのようなお化粧の垢抜けない女の子は、そんなことを繰り返すうちたびたび補導されました。

何度目かに補導されたとき、親は警察に「もらい下げ」に来ませんでした。

そのため、ひと晩留置されたのです。

施設送りで構わないという親の意志表示でした。

しかし、週1回少年二課までカウンセリングを受けに出向くという条件で許されたのです。

まだ中2だったとき、歌舞伎町のディスコで知りあった少年といっしょにパチンコをして稼ぐと、吉野家の牛丼を手に昼の割引タイムにラブホテルへ行き、多いときは1日でセックスを10回以上しました。

15歳でその少年と同棲、しかし相手の親とのトラブルで逃げ出しました。

少年の友人たちに助けをもとめると彼らに輪姦されかけたりもしたのです。

自殺を考えたが実行できなかった――と『プラトニック・セックス』にあります。

16歳で「おミズの花道」

高校に進学しましたが、一学期で退学。

88年晩秋、16歳になった彼女は「アルバイトニュース」で見た湯島のスナックで働きはじめました。

日給1万円、お金をもらえて、カラオケが歌えて、お酒が飲める。

お客にちやほやされる。こんな楽しいバイトはないと思ったそう。

「愛」という源氏名は、「水商売」の第一歩を踏み出したこの店がつけてくれました。

「飯島」という姓はもう少しのち、その頃テレビの深夜番組で人気があった飯島直子にあやかったものです。

その店での客の評判はよかったようですが、19歳と自称したのに実際は16歳になったばかりとばれて、クビになりました。

家にもどるつもりはなかった。

「自立」するにはホステスが早道だ。

時代はバブル、仕事はいくらでもあり、お客はいくらでもいました。

帰りのタクシーは深夜2時過ぎまでつかまらず、時代は沸騰した湯のようでした。

彼女がいうところの「おミズの花道」は六本木から始まるのですが、その前に目黒の広いワンルーム・マンションを借りました。

家賃13万8000円、お金は街で知りあった若い自称医者に借り、賃貸の名義人にもなってもらったそう。

いくらでもお金を持っているらしい彼は、アルマーニ、ロレックス、ブルガリなど高級ブランドを身につけ、

「肩からのショルダー電話をいつも自慢気に使いこなしていた」。

当時の携帯は、まだ戦場無線機くらいの大きさだったのです。

街は、車で送り迎えしてくれる「アッシー」、ごはんをご馳走してくれる「メッシー」、プレゼントを貢いでくれる「ミツグくん」、本命不在のときの代打要員「キープくん」など、下心いっぱいの青年たちであふれかえっていました。

おミズの女の子たちが羨望と嫉妬の火花を散らす「バブル」の絶頂期をすごした六本木でも同僚ホステスに年齢詐称をチクられ、店を辞めました。

銀座へ移ったのですが、美容院に毎日行かなければならず、タクシー通勤で、それらはみな自前でしたから、いくら時給がよくても夜ごと朝まで遊んで男に入れあげる癖があればとても追いつきませんでした。

「どうせ、すぐやめる」

1990年末、飯島愛はニューヨークへ行きました。

たった1週間の滞在でしたが、ニューヨークの広さ、自由さ、先端的な遊び場での性的光景に衝撃を受けました。

いつかここに「留学したい」「英語で遊びたい」と18歳の飯島愛は強く思ったのです。

そのためにはお金だ。しかし家賃は18万円なのに、90年の1月から4月までだけで540万円も使う暮らしぶりでは「留学」資金はとても貯まらない。

「ハゲオヤジ」のプレゼントのブランド品を質屋に持って行き、お金にかえる。

それでも全然足りない。「誰もが知っている大企業」の社長がホテルの部屋のテーブルに300万円の札束を置いたときには、さすがに驚いた。

要するに売春である。

AV出演の話がきたのは91年夏、領収書にサインしたのは満19歳になる直前でした。

3ヵ月働けば1000万円といわれ、承知したのです。

10タイトルか20タイトルのAVに出演。

性行為は「疑似」でいいけれど、そのほかは何でもありでした。

飯島愛はどうしても1000万円が欲しかった。

「留学」費用、引越し資金、クラブの客が踏み倒した売り掛けの負担金、借金300万円などをあわせるとそれくらいになります。

撮影現場での飯島愛の評判は最悪でした。

遅刻は平気、台本は読んでこない。

芝居はしてくれない。

「小芝居のとこなんて早送りされる、必要ない、さっさと済まそう」という、ある意味では妥当な彼女の主張を支えたのは、「どうせ、すぐやめる」「いまは稼ごう」という合理的、かつ投げやりな仕事観だったのです。

彼女をAV女優として売り出す側にも目算がありました。

胸と目元を整形させ、ムービーは撮りだめて、飯島愛を有名にしてから一気に放出する算段だったのです。

彼らはテレビの深夜番組に売り込みました。

テレビ東京「ギルガメッシュないと」という番組で飯島愛は「Tバックで読むニュース」というコーナーを担当。

最小限の布切れを使った下着、お尻の部分は一本の紐状で、背後から見るとTの字だからTバックです。

そのテレビ出演が決まった頃、最初の3ヵ月のAV出演契約が切れました。

AV制作者は「もう3ヵ月やってくれれば、今度は2000万円」と誘い、彼女は「どうせ、すぐやめる」と自分に弁解しつつ承諾したのです。

気がかりなのは、AVにしろ深夜テレビにしろ、実家にばれないかということでした。

14歳で家を出て以来、体形は変わり、整形もしました。

それにウチは堅い人ばかり、そんな番組は見ない…だから大丈夫、と彼女は思いたかったのです。

その生番組の放映は92年1月からでした。

最初の放映時に2時間遅刻。

本番には間に合いましたが、リハーサルはできなかったのです。

画面では彼女が尋常にニュースを読んでいると見えます。

しかし、カメラが引くと半裸だとわかるのです。

さらに後ろにまわるとTバックが見える…そんなつくりでした。

根の頭がよい飯島愛だから、周囲の不興を買いながらも自分の役目はそつなく果たしたのです。

「バブルの娘」の帰宅

初回からの遅刻は、やはり「どうせ、すぐやめる」と思っていたせいでしたが、92年晩秋、生放送を「バックレ」てしまいました。

出演者たちは、テレビ画面から「愛ちゃん、怒らないからおいで」と呼びかけたのですが、彼女は部屋を出なかったのです。

「捜索」を警戒して、ピザの宅配もドア・チェーンを掛けたまま箱をタテにして受け取りました。

堕胎したのは92年6月のこと。

91年晩秋から同棲していたその相手は、92年11月、飯島愛が20歳の誕生日を迎えた直後に彼女の貯金通帳を持って去っていったのです。

「バックレ」た理由は彼女に深い傷を残したこの一件かも知れません。

93年2月14日、バレンタイン・デーに飯島愛は渋谷をロールスロイスのコンバーティブルで走るというプロモーションを行い、それをCNNが世界に報道しました。

同年5月、彼女は東大の五月祭に呼ばれます。

2500人が「Tバックの女王」を見に集まりました。

ノーギャラだったのですが、多数のマスコミの取材に事務所はパブリシティ大成功と自賛。

14歳から20歳までに、普通の女性の30年分くらいの経験を積んだのです。

彼女はもうAVには出ていませんでしたが、テレビではAV女優上がりをあからさまにし、また整形手術も隠しませんでした。

芸能人として生きる決意を固めた彼女は、もはや遅刻せず、テレビ番組が自分にもとめているものを敏感に察して、すなわち痛々しいくらいに「空気を読んで」ふるまい、トリックスターの地位を脱します。

飯島愛が「Tバック」と訣別する直前の94年8月、バブルの象徴であった「ジュリアナ東京」が閉店しました。

居場所のなかった10代の飯島愛を居候させてくれ、また賃貸マンションの名義人になり、入居費用を貸してくれた自称医者の青年が、貸した金を返せ、返せないなら寝ろ、といってきました。

この人はゲイだったはずなのに、と思いながら要求に従ったのです。

その、まだ30代前半だった自称医者が自宅で死んでいるのが発見されたと知ったのは95年の秋のこと。

「あなたテレビに出てる?」という母親からの電話を受けたのも同時期、23歳の誕生日を迎えた頃。

事実を認めた愛は、肩の荷を下ろしたような気持でした。

97年、24歳になった彼女は何度か家に帰っています。

そうして両親と喧嘩腰ではなく話すことができました。

10年におよぶ長い旅は終ったのです。

「プラトニック・セックス」

この97年は彼女の転機となりました。

5年半籍を置いた芸能プロダクションを離れ、「渡辺プロダクション」に自分で電話して所属タレントになりたいと伝えたのです。

面接したのは副社長の渡辺ミキでした。

渡辺晋・美佐夫妻の長女で当時37歳のミキに、飯島愛は過去の生々しい性的遍歴のほか、流出した「裏ビデオ」をネタに脅迫してくる者たちにやむを得ず金を払ったことを告白しました。

すると渡辺ミキは、「あなた、そういう体験を本に書きなさい、苦しくても書きなさい」と言ったのです。

書いてしまえばもう脅迫されることもないし、あたらしい飯島愛の出発になる。

そういって渡辺ミキはためらう飯島愛を説得しました。

記憶と日記をもとに書いた自伝『プラトニック・セックス』は、2000年10月31日、飯島愛28歳の誕生日に発売されました。

この本はよく売れ、2009年までに170万部に達したのです。

台湾で『式性愛』の題名で翻訳されると、飯島愛の当地での人気は異常なまでに高まりました。

プロモーションで台湾を訪れた彼女の記者会見には、トム・クルーズのときとおなじ400人の記者が集まりました。

前年に華人作家として初めてノーベル文学賞を受賞した高行健がちょうど同時期、亡命先のパリから訪台して講演会を開きましたが、飯島愛に圧倒されたか聴衆はまばらだったそうです。

「願いが叶うと、すべてが終わる」

『プラトニック・セックス』の印税で彼女は渋谷の高層マンション最上階の部屋を買いました。

間接照明だけ、3メートル先は何も見えない暗い部屋に彼女はひとりで住み、コンビニ弁当を常食としたのです。

ある時期はバナナしか口にしなかったので、極端に痩せました。

1999年11月頃、親密であった妻子ある芸能人と別れたあと、孤独癖がさらにつのったようでした。

健康問題は10代からかかえていました。

腎盂炎と腎臓結石です。

そのため定期的に発熱しました。

テレビのトーク番組の本番中に、早く帰りたいと口にすると、周囲は「愛ちゃんのいつものワガママ」と受け取って笑っていましたが、実は30代になって急速に悪化した体調のせいだったのです。

そんな中、彼女は2003年末から「反エイズ・キャンペーン」に積極的に参加しました。

自身もたびたびエイズ検査を受け、陰性という結果を得ています。

彼女は性病予防の装具を開発・販売する会社を起業したいと考えていました。

2007年3月、飯島愛は芸能界引退を表明。

しかし、会社を共同経営するはずの人物に金を持ち逃げされたり、受難はつづきました。

2008年には、抗うつ剤の使用を告白。

かなり深刻なうつだったそうです。

2008年12月5日、ブログを最後に更新、翌6日、宇都宮でのエイズ予防啓発イベントに参加しました。

24日、しばらく音信がないのを不可解に思った元付き人がマンションを訪ねました。

反応がないので管理人とともに入室すると、飯島愛は椅子から転げ落ちたような格好で床に倒れていたのです。

数日前に亡くなった気配でした。

12月17日頃の死亡と推定されたが、暖房が機能していたにもかかわらず腐敗臭は希薄だったそう。

しばらく時間をおいて、死因は「肺炎」と発表されました。

『プラトニック・セックス』のエピグラフは「願いが叶うと、すべてが終わる。」 やや不吉な一文でした。

「バブルの娘」は、バブル以後の18年を、あまり幸せとはいえないオトナとして生き、36歳で死んだのです。

ネットの声

「若くから人生の酸いも甘いも経験しているから、バラエティ番組でコメントを振られても芯のある言葉を発してましてね。
優しい言葉も厳しい言葉も自身の波乱万丈な人生の経験を踏まえてたんですね。
もし、今もご存命ならご意見番として活躍されていたと思います。」

「同世代の方だけど、もうそんな前なのか。同世代でバブルを経験してるのはある意味珍しい。この方が言うように、10代の数年間で数十年分生きた感じだったのかもしれない。」

「本名は初めて知った。親の期待が大きすぎて、自分で受け止められなかったのだろう。僕は独身で子供もいないから、何とも言えないけど、子供の見極めというか、そういうことも大切なのかな」

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