西岡恭蔵「50年目の真実」今も色褪せない“プカプカ”の謎が明かされる

名曲『プカプカ』の謎が明かされる 西岡恭蔵「50年目の真実」

ザ・フォーク・クルセダーズなど往年の名曲を披露する「あの素晴らしい歌をもう一度コンサート2021」、松本隆作詞活動50周年を記念してはっぴいえんどのメンバーなどが集まった「風街オデッセイ2021」、半世紀前の歴史的な反戦フォーク集会にちなむ「新宿南口フォーク集会」──。

この秋、1970年代のフォーク&ポップスをリバイバルするコンサートが相次いで開催され、大いに盛り上がりを見せています。

そんな中、やはり50年前にリリースされ、今また話題になっている歌があるのです。

シンガーソングライターの西岡恭蔵(1948~1999)がつくった『プカプカ』です。

B面からのヒット曲

もともと1971年(昭和46年)に出された『男らしいってわかるかい』というシングル盤のB面の曲だったのですが、関西を中心にラジオの深夜放送でじわじわと人気が広がり、時代を象徴するヒットソングとなりました。

歌詞は4番まであり、「俺のあん娘」は「タバコ」だけでなく、「スウィング」と「男」と「占い」が好きだと続きます。

そんな奔放な女性に翻弄されつつ、彼女をまるごと受け入れようとする「俺」の思いが綴られるのです。

この曲を最初に歌ったのは、大阪のフォークデュオ「ザ・ディランII」の大塚まさじと永井ようだったのですが、間もなく作詞作曲したシンガーソングライターの西岡自身が歌い、スタンダード・ナンバーとなりました。

以来、原田芳雄や桃井かおり、山谷初男といった個性的な俳優たちがこの曲を持ち歌にしたほか、桑田佳祐、奥田民生、泉谷しげる、福山雅治などの人気アーティストや、森山直太朗、ハンバートハンバート、ハナレグミなど、50人を超えるミュージシャンたちがカバーして、今も歌い継がれています。

その西岡恭蔵の初めての評伝『プカプカ 西岡恭蔵伝』が出版され、注目を集めています。

没後22年目にしてまとめられたこの評伝には、ファンの間で長らく“謎”とされてきた「俺のあん娘」のモデルについての秘話が明かされているのです。

書き換えられた歌詞の謎

『プカプカ』で歌われている女性のモデルは、ジャズシンガーの安田南だといわれています。

安田南は、1970年代に異彩を放ったアーティストで、俳優、エッセイスト、ラジオ・パーソナリティーとしても独自の人気を集めた、まさに伝説のシンガーでした。

前述した評伝の著者である中部博氏が語ります。

「『俺のあん娘』のモデルが安田南さんであることは、西岡恭蔵さんご自身がライブステージで語っています。
また、1970年代に西岡さんが安田さんと雑誌の企画で対談した際にも、1番(タバコ)と2番(スウィング)は安田さんのことだったと明かしていますが、3番(男)と4番(占い)のモデルが誰なのかは語っていません。しかし実は、この曲のサブタイトルとバース(前口上の語り歌)の中に、その“ヒント”が隠されていたのです」

最初にザ・ディランIIが出したシングル盤の歌詞カードには、『プカプカ』というメインタイトルだけが書かれていました。

次に発表されたLPアルバム『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』に収録されたこの曲には「みなみの不演不唱」というサブタイトルが付けられました。

ここにある「みなみ」は安田南の名前に掛けていると考えられます。

ところが、さらに半年後に西岡恭蔵自身が出したデビュー・アルバム『ディランにて』のライナーノーツでは、サブタイトルが新たに「赤い屋根の女の子に」と書き換えられているのです。

「赤い屋根の女の子」は歌詞に一言も出てこないから、いかにも意味深である。中部氏によれば、

「最初の頃に歌われていたバースでは、『おいら』が『風来坊』になるきっかけとなった『いかしたあの娘』との具体的な関係が綴られているのですが、その後に定番となったバースでは抽象的な印象に変わっています。それは、西岡恭蔵自身の精神的な成長とも関わっているように思えます」

先の評伝では、「俺のあん娘」のモデルとなったもう一人の「赤い屋根の女の子」の存在を突き止めている。そして、大阪生まれのその女性からこんな証言を引き出しています。

「『冬の雨の相合い傘さ』と聴いたとき、ああ、これは私たちふたりの歌やと思いました。『冬の雨の相合い傘』を知っているのは私と恭蔵だけですから」

しかし、二人は付き合って早々に別れることになってしまったそう。

『プカプカ』は、大学入学を機に大都会・大阪へ出てきた西岡恭蔵が初めて失った愛の鎮魂歌なのでした。

かけがえのない伴侶を失って

それでも、物語はそこで終わりません。

ファースト・アルバム『ディランにて』を出して間もなく、西岡恭蔵は作詞家のKURO(田中安希子)と結婚します。

それから二人はアメリカやカリブ海、アフリカなど世界中を旅しながら、まさに二人三脚でたくさんの歌を紡いでいきます。

矢沢永吉の古くからのファンであれば、「西岡恭蔵」の名前を作詞家として記憶しているかもしれません。

矢沢永吉がソロ活動を開始した1970年代後半から1990年代初頭まで、西岡恭蔵は30曲以上の歌詞を矢沢に提供しているからです。

『黒く塗りつぶせ』『古いラヴ・レター』『RUN&RUN』『A DAY』『あ・い・つ』などがそうですが、その中でも印象的なのは、「タオル投げ」で知られる『トラベリン・バス』でしょう。

矢沢永吉への歌詞の提供は、やがてKUROとの共同作業になっていきます。

西岡恭蔵とKUROの二人は、夫婦としてだけでなく、歌づくりにおいても、かけがえのない唯一無二のパートナーだったのです。

ところが、予想もしない悲劇が二人を襲うのです。

KUROに乳がんが見つかり、懸命に闘病を続けたにもかかわらず、1997年4月に46歳という若さで亡くなってしまいます。

そして、その三回忌に合わせるように、西岡恭蔵もまた、1999年4月に世を去ることに…。

前述の評伝では、そんな二人の最期に関する経緯も詳しく明かされています。

『プカプカ』が生まれてからちょうど50年──。それだけの歳月を経てもなお人々に愛され続けているのは、この歌が時代も世代もジェンダーも乗り越えた、究極領域のラブソングだからだったのです。

ネットの声

「私は芳雄ちゃんの大ファン。ライブに行くとよく歌ってましたので歌はよく知っていましたし、彼のディスクにも入っています。林美雄さんのラジオにゲストで出た時も歌ってました。歌う時によく、この歌の女が大好きなんだよなぁって言っていました。だからね、チョットだけジェラシー。みんな元気で楽しかった時代に戻れたらな~」

「西岡恭蔵さんたちは、うちの近所の米軍ハウスに住んでたんで、たまに思い出します。永ちゃんの印税が入ってるハズなのにこんな平屋?みたいな家だったけど、自由で羨ましかったな。」

「西岡恭蔵さんを知った翌年に奥様の後追いされて亡くなられたのよな。知り合いのライブハウスのオーナーさんに自分とこの会場で行われたライブ映像を見せてもらって次に来る時は是非行きたいと思った矢先の訃報だった。」

 

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