なにげに?歴史を動かした男「新田義貞」鎌倉幕府を倒した隠れた功労者の足跡を追う
目次
鎌倉幕府への造反
新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉幕府を滅ぼした最大の功労者で、かなりダイレクトな意味で「歴史を動かした」と言っても差し支えない人物です。
しかしライバルの足利尊氏の存在のせいで、今も影が薄いどころか非常に評価が低いところがあります。
新田義貞像(藤島神社蔵・Wikipediaより)
今回は、彼の実績を振り返ってみましょう。
の本名は源義貞といい、源氏の名門・源義国の長男である源義重を祖先に持ちます。
確かな生年は明らかになっていませんが1301年前後の生まれと言われています。
源義重が上野国新田荘(現在の群馬県太田市)を治めていたことから新田本宗家と呼ばれ、新田姓を名乗るようになりました。
のちに対立する足利尊氏も源義国を祖先とし、こちらは次男の義康の子孫でした。
政治的な力と財力をつけてゆく足利氏と比べて、新田本宗家は名門でありながら領地は少なく貧乏で、冷遇されていたようです。
1333年頃、後醍醐天皇による討幕命令を受けた楠木正成が挙兵します。
後醍醐天皇(Wikipediaより)
鎌倉幕府はこれに対して討伐軍を結成し、義貞にもこの討伐軍に参加するよう命令がありました。
一度は討伐軍に参加していた義貞でしたが、途中で病気を理由に引き返します。
実はこれは仮病で、後醍醐天皇側から書状を受け取っていたとみられています。
幕府軍を撃破
そして幕府から軍費調達のために徴税使が義貞の元を訪れますが、重い徴税に耐えかねた義貞はなんとこの徴税使を斬り捨ててしまいました。
これが原因で、もともと少なかった領地はさらに没収されてしまい、義貞は討幕を決意して軍を挙兵します。
初めは150ほどの兵しかいなかった義貞軍ですが、反幕府に賛同した越後や甲斐から5千の兵が加わりました。
これは各地で増えてゆき、最終的には20万もの軍勢になったといわれています。
分倍河原駅前にある新田義貞像
義貞の軍が鎌倉を攻める際、山側と海側からの挟撃を試みましたが、稲村ヶ崎はちょうど満潮であったため海側から攻めることができませんでした。
この時、義貞が黄金に光る太刀を海に奉納すると、海の龍神がそれに応え潮が引いたという伝説が残っています。
超人的な力が働いたのか、それとも義貞が潮の満ち引きを計算していたのか定かではありませんが、これにより義貞の軍は鎌倉御所を挟撃することに成功します。
追い詰められた北条高時は家臣と共に自害し、義貞はわずか15日で鎌倉幕府を滅亡させました。
このように、討幕の功労者となった義貞でしたが、十分な恩賞は得られませんでした。
不遇の最期
同じ頃、京都の六波羅探題を攻め落とした尊氏には「従三位武蔵守鎮守府将軍」の地位を与えられましたが、義貞は「従四位上左兵衛佐上野守・越後守・播磨守」の地位に収まります。
鎌倉幕府が滅亡すると、すぐに後醍醐天皇は建武の新政を始めます。
これは今までの武士の政治を否定するようなもので、多くの武士から反感を買いました。
そして尊氏は光明天皇を立てて「北朝」と称し、後醍醐天皇に真っ向から反発したのです。
後醍醐天皇も皇位は自らの「南朝」にあると譲らず、この南朝側の総大将に義貞を据え、尊氏を討伐するべく軍を鎌倉に送り込みました。
南朝では他にも楠木正成や北畠顕家などの力を持った武将がいましたが、北畠のほうが義貞よりも位が高く、総大将であるはずの義貞は簡単に命令を下すことができませんでした。
北畠顕家卿肖像(萩生天泉画、霊山神社蔵・Wikipediaより)
さらに北畠は義貞を北朝の尊氏に差し出そうとするなど、全く上手くいきません。
正成は湊川の戦いで、顕家も石津の戦いでそれぞれ討たれてしまいます。
1338年、義貞も藤島の戦いにて37歳の若さで戦死してしまいました。
その戦歴と実績に反して、当時から冷遇され不遇の位置にいたことが分かります。