落合博満のプロ野球選手になる前の軌跡がすごい

落合博満氏 東洋大中退から東芝府中入社の経緯を語る 配属された部署は?

現役時代に3冠王を3度獲得し、監督としては中日を4度のリーグ優勝に導いた落合博満氏(68)が9月28日、自身のYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」を更新。

社会人・東芝府中時代の思い出などを語りました。

プロボウラーになっていた!?

東洋大学をすぐに中退し、故郷の秋田に戻って、兄がボウリング場の支配人をやっていたことからボウリングにのめりこんだ。

20歳を機に秋田工時代の恩師に相談し、1974年1月に東芝府中に入社した。

1978年のドラフトでロッテから3位指名され、入団するまで、社会人を4年以上経験した。

東芝府中もそこに野球部があったからⅢT年

落合氏は東洋大中中退後について

「うん。(野球関連は)一切してない。ボウリングをやってた。兄貴がボウリング場の支配人やってたんで、それでボウリングで遊んでたっていう。(他の仕事は)何にもしてない」

と語り、東芝府中への入社の経緯については

「(高校時代の)野球部の部長に言って、ちょうど20歳過ぎたんで、どっか就職するとこありませんか?って言ったら、東芝府中で季節工(期間従業員)雇ってるから行くか?って言うんで、どこでも結構ですっていうので入った会社だよ。正社員じゃないよ、最初は」

と明かした。

落合氏によると、社会人入りの選択は、野球をやることが優先だったわけではなかったというのです。

「まずは働くために。たまたまそこに野球部があって、野球部の部長からの推薦だから野球をやれるだろっていうことで、野球部に籍を置いた」とし、スタッフの「働くことが先だったのか?」の問いに「そうですよ」とした。

仕事が終わって練習を

配属された部署は

「電力システム制御部電力配電盤課っていってね。それを短く言えば、電配、電配っていうんだけど、要するに、火力、水力、原子力の配電盤を作っていた」と落合氏。

「(作業現場の)中に入ってくれば、半年、1年くらい、平気でそこに設置されて作業するっていう。(組み立てて)現地へ運んでいくの。試験もしてね。で、現地行くときはそこに携わった人間が、途中で図面に変更とかなんかがあればね、すぐ直せるようにって必ず現地へ飛んでいくよ」

と仕事内容を細かく説明しました。

当時の東芝府中のレベルについては「まあ社会人野球でいけば下のクラス」とした上で

「仕事は朝の8時10分から(夕方)5時までやって、それからの練習だったからね。全部府中工場の中での社員での野球チーム。だから東芝本社とは違ってね、いろんな事業所から来て配属されて、野球やってるっていうのとはわけが違う」

と語ったのです。

ネットの声

「その東芝府中野球部での活動が本当に楽しかったと語っていました。厳しい上下関係もなく、のびのびとやれたと。
落合博満と言う不世出の大打者は、エリート街道とは正反対のルートを進んでプロに辿り着いた。しかも本人が望んでそうしたわけでもなく、なり行きに近いと言う…
ただ、野球の素質は幼少期からずば抜けていたらしいので、それを知っていた高校時代の恩師が大学や社会人への道筋をつけてあげていたのは間違いないね。」

「高校時代に先輩のいじめが嫌で幽霊部員になったり、大学を中退してボウリングしたり、落合はあの時代の人間なのにたぶんゆとり世代と感覚が似ていると思う。言葉や暴力で圧力をかけられると弱く、無言で放っておいてもらったほうが伸びるタイプ。世代を問わずアマチュア野球でチームになじめずドロップアウトしてしまった才能ある選手はクラブチームあたりでやり直して独立リーグにステップアップできれば、企業チームやNPBにつながるかもしれない。」

「学生時代、野球の素質・運動神経は抜群でも、道を踏み外し、競技を辞める選手は少なからず居る。
そう考えると、やはり落合さんは「持ってる男」だね。
東芝府中に野球部が無かったら、プロ入りする事はなかったはず。
逆に東洋大で、4年間全うしていた場合、安打数や本塁打が歴代上位で、ドラフト1位入団も有り得たかもしれない。」

「落合さんのプロ入り前の不思議な物語・・・・入社後野球勘を取り戻したり、都市対抗野球大会へ出場、周囲の評価の変化であったり、とこの続きを連載してください。本当に興味ある経歴だと思いませんか。ロッテ二軍時代にホームランを量産して一軍に上がって7番に座って後半だけで15本打って以降注目してました。(1979-80頃) 落合さんと同年の者より。」

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