もう一つの真珠湾攻撃…技術は継承された

潜水艦との見事な連携により実現した飛行艇による2度目の「ハワイ奇襲攻撃」

1941年12月7日(現地時間)、ハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊に対し、壊滅的な打撃を与えることに成功した日本海軍。

それから10日後の12月17日、伊7潜水艦から発進した九六式小型水上機がハワイ偵察を行うと、パールハーバーでは灯火管制も行われず、昼夜兼行で復旧作業が行われていたのです。

二式大艇による奇襲攻撃を立案

知らせを受けた軍令部と連合艦隊は、復旧作業を妨害すると同時に、アメリカ軍の士気をさらに挫くことを目的とした再度の空襲作戦の必要性を痛感。

そこで目をつけたのが、その時点ではまだ制式化されていなかった一三試大型飛行艇であった。

この飛行艇は高度4000mで巡行速度296km、偵察時の航続距離は7000kmを超えるという驚異のスペックを有していました。

しかも800kg魚雷を2本、または250kg爆弾を8発搭載できたのです。

この数値は途中で1回の燃料補給ができれば、日本軍が占領したマーシャル諸島からハワイが攻撃できるものです。

そこで連合艦隊司令部では、この飛行艇を使用。

途中で潜水艦による燃料補給を行い、パールハーバーを再び奇襲する作戦を考案しました。

それに先がけ1942年2月、飛行艇は制式に採用され二式飛行艇(二式大艇)と命名されます。

立案された作戦では、二式大艇が5~6機必要とされました。

しかしこの時点で使用可能な機体は2機に過ぎなかったのです。

そこで2回の反復攻撃が決定され、呼称は「K作戦」に決まります。

第6艦隊(潜水艦のみで構成されている艦隊)は、第1潜水戦隊を充当。

補給任務に就く潜水艦は伊15、伊19、伊26で、水偵格納筒を改造して航空燃料補給装置を装備しました。

“空の戦艦”とも呼ばれた二式大艇。戦後、残されていた3機のうち状態の良いものは整備され、アメリカ軍に接収された。その後、アメリカ側のテストで驚異的な性能を発揮したため、指揮官から「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と賞賛された。

潜水艦での補給を受けて真珠湾へ

二式大艇の飛行経路はマーシャル諸島ウォッゼ島を発進した後、途中のフレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受けた後、真珠湾攻撃に向かうというもの。

ウォッゼ島とフレンチフリゲート礁の間に、無線誘導のために伊9が進出。

さらに飛行艇が不時着した場合に備え、伊23がハワイ島付近に待機するという、万全の構えを敷いたのです。

K作戦で飛行艇への燃料補給任務に就いたうちの1隻、伊19潜水艦。当時の艦長は楢原省吾中佐であった。伊19はその後、木梨鷹一少佐が艦長となり、空母ワスプを撃沈するという殊勲を挙げたことで知られている。

1942年3月4日0時25分(日本時間・以下同)に、橋爪寿夫大尉が指揮する二式大艇1番機が離水。

続いて笹生庄助中尉率いる2番機も離水、まずは潜水艦が待つフレンチフリゲート礁を目指しました。

両機とも250kg爆弾を4発搭載していました。

両機は8時35分頃から伊9が発する長波に導かれ、9時10分には同潜水艦を確認。

そして13時00分にフレンチフリゲート礁上空に到達し、安全を確認したうえで50分後に着水。

すると潜没待機していた伊15、伊19が浮上。潜水艦と飛行艇は環礁内に移動し、約1時間の間にそれぞれ1万2000リットルの燃料を、じつに手際よく補給しました。

その間、飛行艇乗組員には潜水艦から心づくしの温かい食事がふるまわれています。

潜水艦の乗組員は、航海が長引くと缶詰ばかりの食事になるものですが、この時は飛行艇乗員のために虎の子の食材を調理、もてなしてくれたのです。

隊長の橋爪大尉以下、その心遣いに感激し、必ず作戦を成功させることを誓います。

奇襲は成功

もう1隻の伊26は給油中、周辺海域の警戒任務に就いていました。

狭い甲板上いっぱいに並び、さかんに帽子を振っている潜水艦の乗組員に見送られ、2機の二式大艇は16時00分に離水、ハワイへの針路をとったのです。

その後、2機はネッカー島(16時57分)、ニイハウ島(18時25分)、カウアイ島(19時35分)を通過。

21時00分にオアフ島上空に達します。

18時44分、アメリカ側はカウアイ島のレーダーにより2機を補足。

当初は味方機と認識。

しかし用心のためカタリナ飛行艇やP-40戦闘機を迎撃機として発進させ、19時18分には空襲警報も発令しています。

この時、オアフ上空は雲に覆われ、場所によっては熱帯性スコールにも起きていたため、二式大艇は迎撃機に発見されませんでした。

1番機はヒッカム飛行場やフォード島を確認し、21時10分に爆弾を投下。

さらに港内の偵察任務も完了します。

対して2番機は1番機との通信連絡がとれず、予定地点での爆撃ができなかったので、雲上から推測爆撃を行いました。

戦果は1番機が投下した爆弾が、オアフ島のルーズベルト高校の窓ガラスを割ったことが報告されています。

それでも翌朝、2機とも無事に帰還したので、奇襲は成功だったと言えるでしょう。

ただ3月7日に予定されていた2度目の出撃は、1番機がフレンチフリゲート礁離水時、艇底を破損したため中止となりました。

戦果は微々たるものでしたが、日本の飛行艇技術が世界一だということを世界に知らしめたのは間違いありません。

この卓越した技術力は、現在の日本にも引き継がれています。

二式大艇を製造した川西航空機は戦後、新明和工業として再スタート。

そして海上自衛隊が世界に誇る優秀な飛行艇「救難機US-2」を製造したのです。

海上自衛隊の救難機であるPS-1は、二式大艇を製造した川西航空機が戦後に設立した新明和工業が製造した世界に誇る名機。前身モデルであるUS-1同様、水陸両用機である。

ネットの声

「飛行艇ならではの作戦ですね。二式飛行艇の作戦に影響されたかはわかりませんが、冷戦時代にアメリカ海軍も空母以外の核攻撃手段としてP6Mシーマスター飛行艇を開発し、給油潜水艦や水上機母艦を中継地点として敵の意表をつく場所から核攻撃に向かうという作戦を計画していました。結局は艦載攻撃機の発達でP6Mは量産されずに終わりました。」

「作戦結果だけ見れば「部分的成功」といえるが、その後が不味かった。米海軍がすぐさま対処行動に乗り出し、フレンチフリゲート礁近辺の警戒を強化したため、同海域を中継基地として使えなくなったのだ。このため、大艇部隊はミッドウェー作戦前の偵察任務を実施できず、米太平洋艦隊の動向を十分に把握できないまま作戦当日を迎える破目に…。他方、米海軍はPBY飛行艇31機をミッドウェー基地へ派遣し、徹底的な索敵行動を実施。こちらは本来の目的をきっちり果たし、南雲機動部隊の壊滅に一役買った。」

「二式飛行艇は飛行艇に依る対艦攻撃を目的に開発されました。しかし第二次世界大戦時には構想は破綻しており二式飛行艇はその高性能を生かす事は殆ありませんでした。幾ら高性能でも目的が誤っていれば兵器としては役には立たない。二式飛行艇は大日本帝国の飛行艇技術の高さと共にその事も示しているのかもしれません。」

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